11時間目:東西冷戦

1.アメリカ VS ソ連
 1945年8月15日、第二次世界大戦という人類史上最も残酷な世界戦争が終結し、世界中の人々が二度とこんな戦争がおきないことを願いました。しかし、残念ながら第二次世界大戦終結と同時に、世界はアメリカ(アメリカ合衆国)とソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)を中心にした東西冷戦の時代に突入していきます。
 第二次世界大戦中、ドイツという共通の敵と戦ったアメリカとソ連は仲間のはずでした。なぜそんな味方であった両国が対立するようになったのでしょうか? まずはそんな東西冷戦の始まりから解説していきましょう。

2.1940年代 ~冷戦の始まり~
 ※これからの年表の見方  「審」の欄が・・・
 ×対立(米ソが対立した悪い事件)
 デタント、緊張緩和(米ソが仲良くなったいい事件)
 第三世界(米ソどちらにも所属しない第三勢力が育った事件)
 軍縮(軍縮に貢献した事件)

年号 事件 内容
1945 ヤルタ会談 ルーズベルト(米)、スターリン(ソ)、チャーチル(英)の話し合いの結果、ヨーロッパ、ドイツが東西に分断される。⇒東西冷戦の始まり ×
1946 チャーチルの
「鉄のカーテン」演説
イギリスの前首相チャーチルがアメリカの大学で行われた講演会で行った演説。これにより、世界が東西冷戦を認識するようになる。 ×
1947 トルーマン・ドクトリン
発表
アメリカのトルーマン大統領が発表した、社会主義国になりそうな危険のある国を社会主義国にならないように支援することを目的とした封じ込め政策。⇒ギリシア、トルコなどを支援 ×
1947 マーシャル・プラン
発表
アメリカのマーシャル国務長官が発表した、第二次世界大戦で荒廃したヨーロッパを支援することを目的とした計画。⇒東ヨーロッパは支援を拒否 ×
1947 コミンフォルム
結成
ソ連が中心となって結成した、社会主義国を支配する各国の共産党の連絡協力組織。 ×
1948 ベルリン封鎖 東ドイツとソ連が、西ベルリンの陸路を封鎖し、西ベルリンを孤立させる。⇒米ソの協議の末、11か月後に封鎖は解除される。 ×
1949 NATO
(北大西洋条約機構)結成
アメリカが中心となって結成した西側諸国の軍事協力組織。 ×
1949 COMECON
(経済相互援助会議)結成
ソ連が中心となって結成した、東ヨーロッパの陣営内で国際分業を進め、経済協力を行うための組織。 ×
1949 中華人民共和国成立 中国にも社会主義国が誕生し、この時点ではソ連に味方する。 ×


●ヤルタ会談(1945年)
 第二次世界大戦が終結する直前の1945年2月、ソ連のヤルタにアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相が集まり、第二次世界大戦が終結したあとのことについて話し合いました。この会議がヤルタ会談です。ヤルタ会談は別に「今から東西冷戦を始めよう!」ということを宣言した会議ではないのですが、東西冷戦が始まるきっかけをつくったことから、東西冷戦が始まった会議として知られるようになりました。
 ヤルタ会談では主に、ドイツのヒトラーによってボロボロにされたヨーロッパをどのように復興させるかについて話し合われたわけですが、この頃、ドイツの西側(西部戦線)ではアメリカ・イギリス軍がドイツ軍と戦い、東側(東部戦線)ではソ連軍がドイツ軍と戦い、それぞれの地域をドイツから解放していたので、ドイツの西側(西ヨーロッパ)はアメリカやイギリス、東側(東ヨーロッパ)はソ連軍が中心となって復興を援助する方向で話は落ち着きます。
 彼らの約束では、復興したあと、これらの国では民主的な選挙を行って新しい指導者を選ぶはずだったのですが、スターリンは約束を破り、東ヨーロッパではソ連を支持する社会主義国が次々と作られていきました。社会主義国がどんな国なのかは13時間目:資本主義・社会主義で詳しく解説しますが、この頃のソ連が推し進める社会主義はスターリンによるひどい独裁政治で、東ヨーロッパの社会主義国はソ連の家来として作られたようなものでした。
 これによりヨーロッパは、ソ連を支持する東ヨーロッパとアメリカを支持する西ヨーロッパという対立構造が出来上がり、これによって東西冷戦の対立構図が出来上がったので、ヤルタ会談から東西冷戦は始まったと言われています。


●鉄のカーテン演説(1946年)
 アメリカが西ヨーロッパ諸国と結びつきを強めたことから、アメリカ陣営のことを西側、ソ連がヨーロッパ諸国と結びつきを強めたことから、ソ連陣営のことを東側といいます。その結果、ヨーロッパの真ん中に西側陣営と東側陣営を分ける国境線が誕生したことから、この国境線をイギリスのチャーチルは「鉄のカーテン」と表現しました。
 そして、この2つの陣営の対立が1989年まで続くわけですが、実は、アメリカとソ連が対立していたにもかかわらず、この2つの国による直接の戦争はありませんでした。というわけで、直接の戦争のことを熱い戦争(熱戦)と表現するなら、アメリカとソ連の戦争は対立していたにもかかわらず、直接の戦闘はなかったことから、冷たい戦争(冷戦)と表現します。
 東西冷戦とは資本主義が正しいと信じるアメリカ社会主義が正しいと信じるソ連の(どうでもいい)プライドをかけた戦いでした。しかし、そのどうでもいいプライドの戦いに、多くの国が巻き込まれ、多くの人たちが命を落としていきました。そんな歴史を振り返ってみましょう。

●ベルリン封鎖(1948年)
 さっき説明したように、アメリカとソ連が直接戦ったことはありません。しかし、もう少しのところで戦いそうだった事件はいくつかありました。その1つ目がベルリン封鎖です。
 第二次世界大戦後、ドイツ東ドイツ西ドイツに分けられて、東ドイツはソ連が管理し、西ドイツはアメリカ、イギリス、フランスが共同管理していましたが、東ドイツの領土のど真ん中にあるドイツの首都ベルリン東ベルリン西ベルリンに分けられて東ベルリンはソ連西ベルリンはアメリカ、イギリス、フランスに管理されることとなりました。その結果、西ドイツの領土である西ベルリンは周りを東ドイツに囲まれた不自然な位置に存在することになります。
 というわけで、西ドイツの本土から、陸の孤島となっている西ベルリンに行くには東ドイツの領土を通らせてもらうしかなかったのですが、1948年、西ベルリンを東ドイツの領土に吸収したかったソ連のスターリンは、西ベルリンに通じる道路と鉄道を封鎖してしまいます。そうすることにより、西ベルリン市民が食料や燃料を調達できなくなり、食べ物もなく、燃料もなくて困った結果「すみません。東ドイツに吸収してください」とソ連に泣きついてくるのを待つことにしました。そんな、あからさまな嫌がらせにアメリカも怒り、ついにソ連とアメリカは戦争に突入・・・とも思われたのですが、ここでアメリカは面白い行動に出ます。「陸がダメなら、空から行ったるわい!」というわけで、アメリカは西ドイツ本土から西ベルリンに向けて、アメリカ空軍の輸送機を飛ばしまくって西ベルリン市民の食料や燃料を輸送することにしました。名づけて「空の架け橋作戦」! これをなんと11ヶ月、合計27万回続けます。このアメリカの思わぬ行動に、結局ソ連のスターリンは西ベルリンの吸収をあきらめ、翌年に封鎖を解除します。というわけで、この時はアメリカのとんでもない作戦のおかげで、第三次世界大戦を防ぐことができました

 

3.1950年代 ~第三世界の台頭~

年号 事件 内容
1950 朝鮮戦争 韓国+アメリカ VS 北朝鮮+中国、ソ連
⇒1953年に休戦協定が結ばれたが、戦争はまだ終結していない。
×
1955 WTO
(ワルシャワ条約機構)結成
ソ連が中心となって、NATOに対抗して結成した、東ヨーロッパ諸国の軍事協力組織。 ×
1955 アジア・アフリカ会議
(バンドン会議)
・アジア、アフリカの国々がインドネシアのバンドンに集まる。
ネルー(インド)と周恩来(中国)の提案で実現。
・平和実現のための平和五原則を元に平和十原則を発表。
1955 ジュネーブ四巨頭会議 アイゼンハワー大統領(米)、ブルガーニン首相(ソ)、イーデル首相(英)、フォール首相(仏)が、スイスのジュネーブで会談。
1955 第1回原水爆禁止世界大会 ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験を受け、広島で開催。
1956 フルシチョフ書記長による
スターリン批判
フルシチョフ書記長は、それまでのスターリンのソ連政策を批判し、アメリカとも協調する平和共存政策を打ち出す。
1956 中ソ論争激化 中ソの国境問題を発端に、中国はフルシチョフの政策を批判しソ連陣営から離脱。
1956 ハンガリー動乱 ハンガリーでおきた反ソ連運動を、ソ連軍が出動し、武力により制圧。 ×
1957 IAEA(国際原子力機関)
設立
原子力の平和利用、原子力の軍事利用の防止を目的に設立された国連機関。
1959 キャンプ・デービッド会議 フルシチョフがアメリカを公式訪問し、アイゼンハワー大統領と会談。


●朝鮮戦争(1950年)
 東西冷戦の期間には、アメリカとソ連の直接戦争の代わりに、両国につながりの深い国が戦い、それらの国をアメリカとソ連が支援するといういわゆる代理戦争がいくつか起こりました。その代表が朝鮮戦争です。
 第二次世界大戦終結により、朝鮮半島は日本からの独立を果たすわけですが、日本から独立したと思ったら、今度はアメリカとソ連が朝鮮半島にやってきて、北にはソ連が支援する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、南にはアメリカが支援する大韓民国(韓国)が誕生しました。その結果、もともと1つの国だった朝鮮半島はアメリカとソ連によって2つの国に分断されてしまいました。
 そして、1950年には、ソ連の支援を受けて金日成(金正恩の祖父)を指導者とする北朝鮮軍が、韓国を北朝鮮に吸収することを目的として奇襲攻撃を仕掛け、朝鮮戦争が勃発します。日曜日の早朝の農繁期で、軍のパーティーの翌朝で高官が二日酔いだったこともあり、韓国軍は不意をつかれ、壊滅的な打撃を受けます。しかし、そんな韓国軍を助けるために日本を占領していたアメリカ軍を中心とする朝鮮国連軍10時間目:国際連合参照)が救援に駆けつけ、今度は韓国軍(と朝鮮国連軍の連合軍)が勢力を盛り返します。と思ったら今度は北朝鮮の隣で同じ社会主義国の中国が350万人もの部隊を派遣し北朝鮮軍を助ける・・・とまあ、この戦争、北朝鮮と韓国だけでなくアメリカや中国まで巻き込んだ大戦争になりました。
 そんな中、ソ連は何をしていたかというと、名目上は北朝鮮に武器や物資の援助をしていただけということになっていましたが、実は東西冷戦が終了してからの調査で、この時アメリカ軍を攻撃した北朝鮮側の戦闘機のパイロットがソ連軍だったことがわかっています。つまり、さっきから「アメリカ軍とソ連軍の直接の戦闘はなかったから、冷戦という」と繰り返してきましたが、実は・・・うそです。ただ、そんな「なんちゃってソ連軍」のせいで、「冷戦」という言葉を教科書や歴史から消してしまうのは大変なので、とりあえず・・・、この話はあまり教科書や授業では触れてはいけないことになっています(?)。
 結局1953年、国境の板門店で両者は休戦協定を結びました。ここでのポイントは、朝鮮戦争は終戦ではなく休戦だということです。朝鮮戦争は終わってはいません。休んでいるだけです。韓国と北朝鮮の対立はいまだに続いています。悲しいことです。

 

●アジア・アフリカ会議(1955年)
 1955年、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議(AA会議、バンドン会議)が開催されました。これは中国の周恩来、インドのネルーたちの提案で開かれた会議で、この会議にはアジア、アフリカから29か国が参加しました。世界の多くの国々がアメリカ側、ソ連側のいずれかの味方に組み込まれる中、第二次世界大戦後多くの国が独立したアジア、アフリカの国々は、アメリカにもソ連にも味方しないというよりも、貧しくて相手にされていない国がほとんどでした。そんな中、アジア、アフリカの国々が団結して会議を開き、世界平和を実現するための平和十原則を発表するという立派な成果を達成したことは、世界にアメリカ(第一世界)、ソ連(第二世界)にも属さない第三世界の存在を意識させることにつながりました。
 アジア・アフリカ会議は第二回目も予定されていたのですが、言い出しっぺであった中国とインドが政治的に対立するようになり、その他の国々も政情不安定になった結果、開催されませんでした。しかし、アジア・アフリカ会議の理念は1961年の第1回非同盟諸国首脳会議に引き継がれることになります。この会議は、これはユーゴスラビアのチトー大統領主導で開かれた会議で、米ソに批判的な国々が25か国参加して始まりました。その後参加国は年々増加し、2016年には120か国の首脳が参加した第16回大会が開かれました。ちなみにアメリカとの同盟関係が強い日本はこの会議には出席していません

●スターリン批判(1956年)
 東西冷戦は、ソ連の指導者がスターリンであったために始まったとも言えます。スターリンが自分の権力を確立するために、アメリカ勢力を敵視し過ぎて、対立構造ができてしまったと言えます。そんなスターリンでしたから、ソ連国内でも彼の独裁はすさまじく、彼の政治を批判でもしようものなら、政治家であろうが地位に関係なく抹殺される。あるいは、彼の政治を批判しなくても、スターリンが批判的だと解釈さえすれば、抹殺されるような恐ろしい政治が行われていました。
 そんなスターリンが死んだ後、しがらくしてフルシチョフがソ連の指導者になりました。スターリンが生きていた頃、フルシチョフはスターリンの忠実な家来であったイメージがあったので、当初、世界はフルシチョフに期待はしていなかったのですが、1956年のソ連共産党大会でフルシチョフはスターリンがやってきた悪事を党員の前で暴露します。これが有名な「スターリン批判」です。さらにフルシチョフは、アメリカに対しても、アメリカとも強調していこうとする平和共存政策を打ち出しました。

●ハンガリー動乱(1956年)
 今まではスターリンを中心とする政治を批判することすら許されていなかったソ連において、まともそうなフルシチョフの出現に、世界は冷戦の終結を期待しました。
 そんな中、東ヨーロッパのハンガリーでは、ソ連による支配に不満を持っていた人たちが民主化要求運動を起こしました。まともな政治家であるフルシチョフなら自分たちの意見を認めてくれるかもしれないと思ったからです。しかし、そんなハンガリーに対してフルシチョフはソ連軍を派遣し、武力で民主化運動を弾圧してしまいました。ソ連軍により約3000人もの人たちが殺され、20万人もの人がハンガリーを逃げ出して西側へ亡命しました。これには世界の多くの人たちがフルシチョフにがっかりしてしまいました。

4.1960年代 ~核戦争の恐怖~

年号 事件 内容
1960 アフリカの年 アフリカで17カ国が、ヨーロッパ諸国の植民地支配から独立を果たし、国連総会で植民地独立付与宣言を採択。
1961 ベルリンの壁建設 西ベルリン市と東ベルリン市の間に壁がつくられる。 ×
1961 非同盟諸国首脳会議 ・アメリカ、ソ連に反発する国が、平和について話し合う。
・ユーゴスラビアのチトー大統領主導のもと、ユーゴスラビアのベオグラードで開かれる。
1962 キューバ危機 ソ連がアメリカの近くのキューバに核ミサイル基地をつくろうとする。
ケネディ大統領(米)とフルシチョフ書記長(ソ)が電話で話し合い、ソ連はキューバから撤退。その後、この2人の間に直通電話(ホットライン)が設置
×

1963 部分的核実験禁止条約
(PTBT)
地下実験以外の核実験の禁止。
⇒(欠点)核保有国のフランス、中国は未加盟。
1965 ベトナム戦争 北ベトナム(+ソ連) VS 南ベトナム+アメリカ
⇒1975年、アメリカが敗北し、北ベトナムがベトナムを統一。
×
1966 フランスがNATOの
軍事部門を脱退
フランスがアメリカの政策に反発し、NATOの軍事部門を脱退。
1968 核拡散防止条約
(NPT)
①今までに核を持っていない国が新たに核兵器を持つことを禁止。
②既に核を持っている国は核を持っていない国に核を渡すことを禁止。
⇒非核保有国に対しIAEA(国際原子力機関)の核査察を義務付ける。
1968 プラハの春 チェコスロバキアでおきた反ソ連運動を、ソ連軍が出動し武力により制圧。 ×
1969 中ソ国境紛争 ウスリー川のダマンスキー島(珍宝島)、アムール川のゴルジンスキー島(八岔島)、新疆ウイグル自治区の国境をめぐって中国とソ連が衝突。


●アフリカの年(1960年)
 1960年はアフリカの年ともいわれます。アフリカのほとんどの国が第二次世界大戦中はヨーロッパ各国の植民地でしたが、アフリカの国が次々と独立を果たします。その中でも17ヶ国の国が独立したのが1960年でした。ヨーロッパから独立したアフリカやアジアの国々は国連にも加盟し、加盟国数で言えば、アメリカを中心とする西側諸国、ソ連を中心とする東側諸国の数を上回るようになり、ますます米ソに所属しない第三世界の影響力が注目されるようになりました。

●ベルリンの壁建設(1961年)
 ドイツが分断されて作られた東ドイツは、ソ連の影響の下、国民の自由が制限される社会主義政策が行われていました。しかし、そんな不自由な政治は国民に決して評判はよくなく、とくに西ベルリンの自由で豊かな生活を目の前に見ることのできる東ベルリンでは、西ベルリンに亡命する人が後を絶ちませんでした。このことを面白くないと感じたソ連は、思い切った行動に出ます。1961年8月13日0時、深夜のうちにソ連と東ドイツは東西ドイツの間の道路を全て閉鎖し、有名なベルリンの壁を建設します。これは、東ベルリンから西ベルリンへの亡命を防ぐためのもので、その後、壁は何度も増強され、最終的には全長155kmもの壁が作られました。そして、一つの都市を分断してしまったベルリンの壁は、冷戦の象徴と言われるようになりました。

●キューバ危機(1962年)
 私が教員になりたての時「私が小・中学校の時は、東西冷戦の最中だったので怖かった」と話をしたところ、ある生徒が、「アメリカとソ連の直接の戦争はなかったのに、何で怖かったのか?」と言ってきました。今思えば、私はアメリカとソ連が大量の核兵器を持っていたことが怖かったのだと思います。現在の核兵器は広島、長崎に落とされたものよりも格段にパワーアップしているため、もし核兵器が使われれば、地球を簡単に滅ぼすことすらできます。本格的な核戦争が始まれば、どこにいても、安全な場所なんてありません。そんな恐怖が実現する寸前だったのが、1962年のキューバ危機でした。
 アメリカのフロリダ半島の対岸に位置する島国キューバでは、カストロ指導の下、社会主義革命が起こり、ソ連を支持する社会主義国が誕生しました。1962年10月14日(日)キューバ上空をアメリカの偵察機が通過したところ、キューバ国内にソ連の核ミサイル基地が建設されていることが明らかになりました。こんなアメリカのすぐ近くに核ミサイル基地なんか作られたら、アメリカとしてはたまったものじゃありません。アメリカのケネディ大統領はこのことを10月22日(月)のテレビ放送で発表し、キューバから西側諸国への核ミサイル攻撃があれば報復攻撃を行うと警告し、ソ連の貨物船がこれ以上キューバ国内に入って来れないように、アメリカ軍艦による海上封鎖を実行しました。
 緊迫したムードの中、米ソ両軍が戦闘態勢を整えるニュースが世界中に流れます。そして、もしアメリカ軍による海上封鎖をソ連軍が突破しようとしたら全面核戦争に・・・? という恐怖に世界がおびえることになります。10月27日(土)には、キューバ上空を飛んでいたアメリカ軍偵察機がソ連軍によって撃ち落され緊張はピークに達します! この日の夜、ケネディ大統領は大好きな映画「ローマの休日」を見て世界の終わりの日に備えたといいます。
 翌日の10月28日(日)ソ連がキューバからの武器(核兵器)の撤退を発表したことによりキューバ危機は終結し、何とか核戦争を避けることができました。また、このときのケネディ大統領とソ連のフルシチョフ書記長の交渉に電話が大きな役割を果たしたことから、翌年からアメリカ大統領とソ連の書記長(ソ連の最高地位)の間にホットラインという直通電話も設置されました。こうして考えると、キューバ危機という事件は米ソの全面核戦争の寸前までいった点ではヤバい事件でしたが、両者が核戦争の恐ろしさを実感し、対話のきっかけになった点では良かったのかもしれません。

 

●部分的核実験禁止条約(PTBT)(1963年)
 キューバ危機のおかげで、核兵器削減に向けた軍縮の動きも始まりました。まず、1963年にはアメリカ、ソ連、イギリスの3国によって部分的核実験禁止条約(PTBT)が結ばれました。これにより、地下実験以外の核実験が禁止され、その後、この条約の加盟国も確実に増えていきます。ただ、核保有国のフランスや中国がこの条約には加盟してないことや、地下実験は禁止されてないことなど、課題も残された条約でもありました。

●ベトナム戦争(1965年~1975年)
 朝鮮戦争に続く大規模な米ソの代理戦争、それが1965年から始まったベトナム戦争でした。第二次世界大戦終了後、ベトナムはホーチミンを指導者とする社会主義国として独立を宣言し、ベトナムの植民地化を狙うフランスと戦争になります。フランス軍の侵攻を食い止めることに成功したベトナムはフランスとの休戦協定を結び、ベトナムは社会主義国の北ベトナム(ベトナム民主共和国)と資本主義国の南ベトナム(ベトナム共和国)に分裂し、北ベトナムソ連、中国が、南ベトナムはフランスに変わってアメリカが支援することになりました。
 これでベトナムにも、ドイツ、朝鮮に続く米ソによる分裂国家が誕生しました。ただ、北ベトナムの指導者であったホーチミンは基本的に人柄もよく、北ベトナムだけでなく南ベトナムの人たちからも支持も高い人でした。それに対し、アメリカの支持のもと南ベトナムの大統領になったゴ・ジン・ジェムは自分を批判する人たちを逮捕し、アメリカからの援助金を自分たちの贅沢のために使うようなひどい独裁者で、そんなひどい政治を嫌った南ベトナムの人たちが、南ベトナムの民主化、アメリカの撤退などを求めて南ベトナム解放戦線を結成し、南ベトナム政府やアメリカ軍と戦うようになります。
 これにあせったのがアメリカです。実は当初、南ベトナム解放戦線は北ベトナムとはあまり関係のない組織だったのですが、アメリカは、南ベトナム解放戦線は北ベトナムの手先であり、南ベトナム解放戦線に負けてしまうと、ベトナムはソ連の味方である北ベトナムに統一されてしまうと警戒してしまいました。その結果、アメリカは大量のアメリカ軍を解放戦線との戦いに送り込み、当初、南ベトナム軍VS南ベトナム解放戦線で始まったこの戦争は、いつの間にかアメリカ軍VS南ベトナム解放戦線に変わってしまいました。そして、この戦争が長引くにつれ、南ベトナム解放戦線への北ベトナムからの支援が強まり、気が付けばこの戦争はアメリカ軍VS北ベトナムという、皮肉にもアメリカ軍が最初勘違いしていた構図に変わってしまいました。
 大事なのは、そもそもこの戦いは南ベトナムの平和を求めるベトナム人たちの戦いとして始まったのに、アメリカ軍は自分たちが支援している南ベトナム政府がとんでもない独裁国家であることに気付かず、ベトナム国民の気持ちよりも、ソ連に対する対抗意識しか頭になかったことです。その結果、多いときには1年間に50万人ものアメリカ兵がベトナムに派遣され、命を落としていきました。さらに、アメリカ兵の中にも民間人や子ども、赤ちゃんを虐殺した兵士やベトナム人の女性をレイプした人がいることなどもアメリカのニュース番組で報道されます。数では圧倒的に劣る北ベトナム軍もジャングルを使った奇襲攻撃でアメリカ軍を苦しめました。
 ベトナムのために戦っている戦争のはずなのに、ベトナム人からは嫌われ、さらにはそんな無意味な戦争に、アメリカでも反戦運動が起こり、ジョン・レノンの「イマジン」のような反戦歌も流行します。アメリカ兵自身も何のために戦っているのかわからなくなりました。その結果なんと、あの世界最強のアメリカ軍が歴史上初めて戦争に負け、ベトナムはホーチミン率いる北ベトナム政府に統一されました。アメリカにとっては約6万人のアメリカ兵が死んだ割に、何も得ることのない戦争でした。

 

●フランスがNATOの軍事部門を脱退(1966年)
 アメリカが無意味なベトナム戦争を戦っている間、アメリカの行動に疑問を持ち、西側陣営にも変化が現れます。最大の動きは1966年にフランスが西側の軍事機構NATOの軍事部門から脱退したことです。フランス大統領ド・ゴールはNATOがアメリカ主導であることを批判し、NATOの軍事部門を脱退。フランスは独自の軍事政策を進むことを宣言しました。
 ややこしいのは、この時フランスはNATOから脱退したわけでなく、NATOの軍事部門から脱退したということです。、これによりフランス軍はヨーロッパ中に駐留していたNATOの軍隊から離脱し、フランス国内のNATO基地も無くなりました。しかし、その後もフランスはNATOの理事会などの会議には出席することができました。つまり、NATOの国々と政治的には協力するけど、軍隊としては関わらないという方針になったということです。
 ただし、冷戦終結後の2009年にフランスはNATOの軍事機構に結局復帰しています。

●核拡散防止条約(NPT)(1968年)
 国連総会で核拡散防止条約(NPT)が採択されました。核拡散条約のポイントは次の3点です。

① 現在核兵器を持っていない国(非核保有国)は、新たに核兵器を持ってはいけない
② 現在核兵器を持っている国(核保有国)(アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国)は、核兵器を持っていない国に核兵器を渡してはいけない
③ 核兵器を持っていない国(非核保有国)のうち、核技術を平和利用(原子力発電)している国は、IAEA(国際原子力機関)の核査察を定期的に受ける。

 つまり、この条約は核兵器をもつ国をこれ以上増やさないための条約でした。しかし、この条約の欠点はこの時点で既に核兵器を持っていた米ソ英仏中の5カ国には核兵器の保有を認めたことです。「おい、おい、早い者勝ちかよ!」という理論に不満を持ち、今もインド、パキスタン、イスラエルは加盟していないし、核開発疑惑が問題となった北朝鮮は2003年に脱退しました。

●プラハの春(1968年)
 1968年、東ヨーロッパのチェコスロバキアで民主化運動が起こり、社会主義の独裁政権が倒れて、民主的な政府が誕生しました。この出来事をプラハの春といいます。しかし、この民主化運動がほかの東ヨーロッパにも広がることを恐れたソ連はWTO(ワルシャワ条約機構)の軍隊をチェコスロバキアに派遣し、この運動を弾圧。ソ連を支持する政府に政権を取り戻させました。ハンガリー動乱と同じようなことがまた起こったわけです。

5.1970年代 ~ソ連の失速~

年号 事件 内容
1971 中華人民共和国が
国連の代表権を獲得
それまでは、アメリカの支持の下、中華民国(台湾)が国際連合の代表権を持っていたが、中華人民共和国と入れ替わる。
1972 ニクソン大統領(米)が
中国を訪問
中国がアメリカに接近し、ソ連とは違った独自の社会主義路線を進むようになる。
1972 第1次戦略兵器制限条約
(SALT-Ⅰ)
米ソが持ってもよい核ミサイルの上限を決定。
1975 CSCE
(全欧安全保障協力会議)
ヨーロッパ全域の東西冷戦の緊張緩和を目指し、東西両陣営相互の安全保障を目的として、全ヨーロッパ諸国が参加し、フィンランドのヘルシンキで開催。
1975 生物兵器禁止条約 生物兵器の開発・生産・保有などを禁止する。
1978 国連軍縮特別総会 東西冷戦を背景に、国際連合でも軍縮について話し合うようになる。
1979 第2次戦略兵器制限条約
(SALT-Ⅱ)
SALTの2回目の条約。
⇒ソ連のアフガニスタン侵攻に反発してアメリカ議会が否決し未発効。
1979 ソ連のアフガニスタン侵攻 ソ連軍がアフガニスタンの社会主義勢力を支援するために、アフガニスタンへ侵攻。 ×


●ニクソン大統領が中国を訪問(1972年)
 第二次世界大戦終了後、中国では共産党(社会主義)国民党(資本主義)が内戦を起こし、最終的には共産党が勝利を収めて1949年に社会主義国である中華人民共和国を建国しました。それに対して、内戦に敗れた国民党は海を渡って台湾に逃げ、資本主義国中華民国を名乗りました。そして、ここからがややこしいのですが、中華人民共和国(社会主義)は「自分たちが正式の中国政府であり、台湾もわれわれの領土の一部だ」と言ったのに対し、中華民国(資本主義)も「自分たちが正式の中国政府であり、中国本土もわれわれの領土の一部だ」と言いました。さあ、みなさん地図を見てください。どっちが正式の中国だと思いますか? ただ、アメリカなどの西側からすると小さいながらも中華民国(台湾)のほうが資本主義国であったことを理由に、中華民国(台湾)を本物の中国と認めて、巨大な中華人民共和国の領土は中華民国(台湾)の一部とみなしていました。その結果、国連にも中華民国が加盟し、中華人民共和国は国連にすら加盟できずにいました。
 しかし、地図で見る限り、中国本土を台湾の一部と考えるのは無理があります。さらに当初、アメリカは中国(中華人民共和国)はソ連に味方だと思っていましたが、中国とソ連が仲が悪いことに気づき、中国とある程度は仲良くすることにしました。そんな中、実現したのが1972年のアメリカのニクソン大統領による中国公式訪問です。これをきっかけに、アメリカや西側諸国は中華人民共和国(社会主義)を正式な中国と認め、晴れて中華人民共和国は国連にも加盟することができました。その結果、中華民国(台湾)は国連を追放され、国際的に孤立することになってしまいます。というわけで、日本の地図帳では、中国と台湾は同じ色で色分けされていますが、実際には別の政府が政治を行っていることをお忘れなく。

 

●第1次戦略兵器制限条約(SALT-Ⅰ)(1972年)
 アメリカとソ連の間で第1次戦略兵器制限条約(SALT‐Ⅰ)が結ばれます。これは米ソ2国間で結ばれた軍縮条約で、米ソが所有することができる核兵器の「何個までしか持っちゃダメ!」という上限を決めると言うものでした。つまり、この条約により核兵器が減ったわけではないのですが、アメリカとソ連が核兵器増加に歯止めをかけようとするという意思を示したという意味では、画期的でした。

●第2次戦略兵器制限条約(SALT-Ⅱ)(1979年)
 SALT‐Ⅰの成功を励みにして、1979年には第2次戦略兵器制限条約(SALT‐Ⅱ)が結ばれます。しかし・・・。

●ソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)
 それと同じ年、ソ連はそれまで支援を続けていた隣国のアフガニスタンで、ソ連に反抗する政権が誕生しそうなことに警戒し、ソ連軍を派遣してその指導者を殺害しました。そして、強引にソ連を支持する政権を作り上げました。その結果、アフガニスタンではソ連に反抗するイスラム教勢力がソ連軍と戦うようになり、10年近く戦争状態になります。いうなればアメリカがベトナムで余計なことをしたのを、ソ連もアフガニスタンでやったということです。
 そんな他国の政治に武力で干渉しようとするソ連のやり方に、アメリカを中心とする西側諸国は猛反発しました。その結果、先ほど結ばれたはずのSALT-Ⅱはアメリカ議会で否決されボツになりました。さらにこの影響で1980年にソ連の首都モスクワで開かれたモスクワ・オリンピックをアメリカや日本などの西側諸国がボイコットするという事態まで起きました。まあ、その仕返しにソ連と東側諸国は4年後のアメリカのロサンゼルス・オリンピックをボイコットするのですが・・・。東西冷戦はスポーツの世界まで持ち込まれたのです。

 

6.1980年代 ~冷戦終結~

年号 事件 内容
1983 SDI
(戦略防衛構想)発表
アメリカのレーガン大統領が、アメリカに向けて打ち込まれた核兵器を人工衛星を使って撃ち落す計画を発表し、ソ連を驚かせる。
1985 ソ連の指導者に
ゴルバチョフ書記長
が就任
三大改革を実施。
ペレストロイカ(改革)=経済にアメリカのような資本主義要素を取り入れる。
グラスノスチ(情報公開)=独裁政治をやめ、政府の情報を国民に知らせる。
新思考外交=アメリカとも協力し合う外交政策を行う。
1987 INF全廃条約
(中距離核戦力全廃条約)
米ソが保有する中距離核兵器の廃棄に合意。
1988 ソ連がアフガニスタン
から撤退
冷戦の拡大を望まないゴルバチョフの方針を西側諸国は歓迎する。
1989 東欧革命 東ヨーロッパ諸国で、ソ連を支持する共産党一党独裁政権が次々と崩壊し、複数政党制や自由選挙が導入されていく。
1989 ベルリンの壁崩壊 冷戦の象徴と呼ばれたベルリンの壁の崩壊に世界は冷戦の終結を予感する。
1989 マルタ会談 ゴルバチョフ書記長(ソ)とブッシュ大統領(米)が、冷戦終結宣言を発表。


●ゴルバチョフ書記長就任(1985年)
 1985年、ソ連の最高指導者である書記長にゴルバチョフが指名されました。ゴルバチョフの三大改革のうち国内政策であるペレストロイカグラスノスチについては13時間目:資本主義・社会主義で詳しく触れますが、外交政策に関してゴルバチョフはアメリカとも協力していく新思考外交を打ち出します。そして、このゴルバチョフの新思考外交が冷戦を終結に導いていきます

●INF(中距離核戦力)全廃条約(1987年)
 まず1987年に、米ソの間INF(中距離核戦力)全廃条約が結ばれます。核兵器はその射程距離によって、短距離核兵器、中距離核兵器、長距離核兵器に分けることができるのですが、米ソが持つ中距離核兵器を全部捨ててしまおうというのがこの条約でした。SALTの時には「この数までならもってもいいよ」という上限を決定しただけだったのに対し、INF全廃条約は核兵器の削減を決めた初めての条約であった点で画期的でした。

●ソ連軍がアフガニスタンから撤退(1988年)
 そしてゴルバチョフは、1988年にソ連軍のアフガニスタンからの撤退を命令します。この行動はアメリカを初め世界中から評価されました。しかし、ソ連軍が引き上げた後、アフガニスタンにはもっと恐ろしいタリバン政権が誕生しまうのですが・・・。それについては12時間目:地域紛争で解説します。

東欧革命、ベルリンの壁崩壊(1989年)
 1989年6月、東ヨーロッパのポーランドで、選挙により民主的な政権が誕生しました。かつてチェコスロバキアやハンガリーでは、ソ連の言うことを聞かない政権が誕生すれば、ソ連軍が派遣されてその政権がつぶされるという事態(ハンガリー動乱、プラハの春)に陥ったわけですが、ゴルバチョフは「自分の国のことは自分たちで決めればいい」という態度を示し、ポーランドにソ連軍は派遣しませんでした。その流れを受けて、東ヨーロッパではソ連の影響を受けない民主的な政権が次々に誕生していきます。この動きのことを東欧革命と言います。ほとんどの国では平和的に民主国家が誕生したのですが、唯一、ルーマニアだけは独裁者チャウシェスクが政権を手放さなかったため、国民との衝突となり、チャウシェスク大統領が国民たちにより殺されることにより新政権が誕生するという事件もありました。
 また、この流れを受けて、ドイツでは東西冷戦の象徴といわれたベルリンの壁が市民の手によって破壊されました。

●マルタ会談(冷戦終結宣言)(1989年)
 そして、この年の12月には地中海の島国マルタにアメリカのブッシュ(父)大統領、とソ連のゴルバチョフ書記長が集まり、冷戦終結宣言を発表します。ヤルタ会談から始まった東西冷戦は、このマルタ会談において終結したため、冷戦が終結したことを「ヤルタからマルタへ」と表現することもあります。

7.1990年代 ~冷戦後の世界~
 マルタ会談によって冷戦は終結したわけですが、その後、東西冷戦が世界に与えた影響を引き続き解説していきましょう。

年号 事件 内容
1990 東西ドイツ統一 西ドイツが東ドイツを吸収・合併。
1991 第1次戦略兵器削減条約
(START-Ⅰ)
米ソが持っていた核兵器の削減に合意。
1991 バルト三国独立 ソ連がバルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)の独立を承認。
1991 WTO
(ワルシャワ条約機構)解散
これにより、東西冷戦は西側のNATOの勝利ということとなる。
1991 ソ連崩壊 ・反ゴルバチョフ派のクーデター失敗後、クーデターを鎮圧したロシア大統領エリツィンによりソ連は12の国(バルト三国を入れれば15の国)に分裂し、ソ連の権限はロシアが受け継ぐ。
・旧ソ連の12カ国はCIS(独立国家共同体)を結成し、少しだけ協力し合う関係となる。
1993 第2次戦略兵器削減条約
(START-Ⅱ)
STARTの2回目の条約。
⇒ロシア議会の否決、同時多発テロ事件をきっかけに破棄される。
1993 ARF
(ASEAN地域フォーラム)
ASEAN(東南アジア諸国連合)加盟国が中心となってアジア・太平洋地域の安全保障を考える会議
⇒日本のほか、アメリカ、中国、北朝鮮などの核保有国も参加。
1995 ボスニア・ヘルツェゴビナ
紛争
イスラム教徒に対して殺戮・暴行を行うセルビア人勢力に対してNATO軍が大規模な空爆を行う。
NATOが「対ソ連軍事機構」から「ヨーロッパの用心棒」的な存在へと変わる。
1995 OSCE
(全欧安全保障協力機構)
CSCEを発展させる形で結成された、東西冷戦終結後のヨーロッパ全域の安全保障と協力を目的とした組織。
1996 包括的核実験禁止条約
(CTBT)
国連総会で採択された爆発を伴う全て(地下実験を含む)の核実験を禁止した条約。
⇒(欠点)発効のためには、全ての核保有国を含む44カ国以上の加盟が必要だが、アメリカ、中国、インド、パキスタンなどが加盟してないのでまだ発効してない。
⇒(欠点)爆発を伴わない臨界前核実験(未臨界核実験)はやってもいい。※アメリカ、ロシアが実施。
1997 対人地雷全面禁止条約 対人地雷の使用、開発、生産、貯蔵、保有、移譲などを禁止する。
1997 化学兵器禁止条約 毒ガスなどの化学兵器の開発、生産、保有などを禁止する。
1998 インドとパキスタンが
核実験
パキスタンとカシミール紛争で対立するインドが核実験に成功し、それに対抗する形で パキスタンも核実験を実施。
1999 チェコ,ハンガリー,
ポーランドがNATOに加盟
かつてNATOの敵国だった東ヨーロッパの国々がNATOに加盟。
⇒その後、東ヨーロッパのほとんどの国とバルト三国が加盟
1999 コソボ紛争 NATOがボスニアヘルツェゴビナ紛争に引き続き、セルビア人勢力に対して大規模な空爆を実施。


●東西ドイツ統一(1990年)
 長い間分裂していた東西ドイツも統合されます。東ドイツを西ドイツが吸収するという形でこの統合は行われ、ベルリンがドイツの首都になりました。

●第1次戦略兵器削減条約(STARTⅠ)(1991年)
 冷戦終結後もゴルバチョフによる新思考外交は続き、1991年には米ソの間にSTART‐Ⅰ(第1次戦略兵器削減条約)が結ばれました。これにより、米ソがもっている核兵器の運搬手段(ミサイル部分と爆撃機)が1600まで、核弾頭を6000まで減らすことが決まりました。SALTの時は核兵器の上限についての取り決めただけで核兵器が減ったわけではなかったのですが、STARTでは核兵器を削減することに成功しました核。これはINF全廃条約に続く大きな成果でした。

 

●ソ連崩壊(1991年)
 このように、冷戦を終結させ、米ソの軍縮にも成功した点で、ゴルバチョフの功績はすばらしいものがあり、彼は1990年にはノーベル平和賞まで受賞しました。しかし、ソ連国内の政治に限って言えば、ゴルバチョフの急激な改革についていけない国民や政治家も多く、改革の影響で経済が混乱し、国民の生活がむしろ貧しくなったこともあり、危機感を持ったゴルバチョフの側近であるヤナーエフ副大統領たちがクーデターを起こしました。ヤナーエフは部下たちに命じ、ゴルバチョフ夫妻を別荘地に軟禁し、国民には「ゴルバチョフは病気になった」と嘘をついて自分たちが政府を乗っ取ろうとしました。
 そんなクーデターを阻止したのが、ロシア大統領のエリツィンでした。ややこしいのが、当時、ソ連は大統領制を採用し、ソ連最初で最後の大統領としてゴルバチョフ大統領が誕生していたのですが、ソ連国内にあるロシア共和国でも大統領選挙が行われ、圧倒的な支持の下、ロシアでもエリツィン大統領が誕生していました。日本で例えるならば、日本の中に東京都があると考えると、日本の総理大臣にあたるのがソ連大統領、東京都知事にあたるのがロシア大統領だと思ってください。
 クーデターを阻止し、ゴルバチョフを救出したことで、エリツィンの人気はさらに高まります。そんな大人気のエリツィン大統領の提案で、ソ連は15の共和国に分裂し、ソ連が持っていた権限は全てエリツィンのロシアに移行されます。東西冷戦の最中、世界を恐れさせていたソ連という国が消滅することにより、東西冷戦は完全に終結します。そして、エリツィンは、旧ソ連の国々でCIS(独立国家共同体)を作り、これからもある程度は連携を図っていこうとします。CISにはバルト三国(リトアニア、エストニア、ラトビア)を除く12の旧ソ連各国が参加します。

 

●第二次戦略兵器削減条約(START-Ⅱ)(1993年)
 ソ連消滅後、ソ連の核兵器を引き継いだロシアは2回目のSTARTであるSTART‐Ⅱ(第2次戦略兵器削減条約)をアメリカとの間で結びました。これにより、アメリカとロシアは核弾頭をさらに約3分の1まで減らそうとしたのですが、ロシア議会が反対したり、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が起こり、これをきっかけにアメリカのブッシュ(息子)大統領が軍備拡張へと転換したこともきっかけに破棄されてしまいました。

●NATO軍がボスニア・ヘルツェゴビナで空爆(1995年)
 東ヨーロッパにあるユーゴスラビアから独立しようとしたボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、セルビア人(ユーゴスラビア側)勢力が、イスラム教徒(独立推進派)の男性を皆殺しにし、女性に暴行を加えていることが分かりました(詳しくは12時間目:地域紛争で)。そんな暴挙をストップさせるためにNATO軍が大規模な空爆を実行します。
 そもそもNATOはアメリカと西ヨーロッパ諸国が、ソ連と東ヨーロッパを敵として戦うために作られた軍事組織でした。しかし、NATO軍がソ連勢力と戦うことは一度もなく東西冷戦は終わってしまいました。それが皮肉にも東西冷戦が終わった後に、軍隊として活動するようになります。これによりNATOは「対ソ連軍事機構」から「ヨーロッパの用心棒」的な役割に変貌していきます。

 

●包括的核実験禁止条約(CTBT)(1996年)
 1963年に結ばれた部分的核実験禁止条約(PTBT)は、地下実験は禁止していませんでした。そこで1996年には全ての核実験を禁止した包括的核実験禁止条約(CTBT)が国連総会で採択されます。これで世界中から核実験がなくなった! と思いきりゃ、この条約に実行力を持たせる(発効する)には、国内に原子炉を保有する国44カ国の署名が必要なのですが、そのうち現在12カ国が署名してないので、この条約は現在実行力を持っていません

●インド、パキスタンが核実験(1998年)
 その結果、1998年にはインドとパキスタンが立て続けに核実験を行って核保有国になったし、2006年には北朝鮮も核実験を行いました。また、包括的核実験禁止条約は爆発を伴う核実験を禁止しているものなので、高い核実験技術を持っているアメリカやロシアは爆発を伴わず、核物質が爆発する寸前まで加熱する核実験である臨界前核実験(未臨界核実験)を毎年のようにやっています。

 

●チェコ、ハンガリー、ポーランドがNATOに加盟(1999年)
 NATOに、かつてソ連の味方だったチェコ(チェコスロバキアがチェコとスロバキアに分裂)、ハンガリーポーランドが加盟することになりました。その後もその他の東ヨーロッパ諸国や旧ソ連の一部だったバルト三国も加盟していき、これによってますますNATOは「対ソ連軍事機構」という当初の目的とは関係ない軍事組織になっていきます。

8.21世紀 ~新冷戦時代~

年号 事件 内容
2001 アメリカ同時多発テロ事件 アメリカの安全保障政策が「ソ連との戦い」から「テロとの戦い」へ移行。
2002 モスクワ条約
(戦略攻撃戦力削減条約)
両国の戦略核弾頭の配備数を2012年までに1700~2200発まで削減することに合意。
2006 北朝鮮が核実験 北朝鮮も核実験を行う。
2007 クラスター爆弾禁止条約 容器となる弾体から複数の子弾を散弾し、殺傷性が高いクラスター爆弾の使用を禁止し、被害者の救済についても定める。
2009 オバマ大統領の核廃絶宣言 アメリカの大統領では初めて、核廃絶に積極的な発言を行う。
2009 フランスがNATOの
軍事機構に復帰
フランスのサルコジ大統領は、アメリカ追随の外交政策をとる。
2010 新戦略兵器削減条約
(新START)
米ロの所有する核弾頭の数を6000発⇒1550発に、ミサイル部分を1600基⇒800基に削減することに合意。
2014 クリミア編入問題 旧ソ連の一部であったウクライナ内のクリミアで、ロシアへの編入を望む住民運動が起き、ロシア軍の支援によりロシアへ編入される。
2017 核兵器禁止条約 ・核兵器の保有・開発・使用を禁止した条約。
・50か国以上の批准により発効する予定だがまだ発効していない。
・唯一の被爆国である日本も、同盟国アメリカの意向に従い、批准する予定なし。
2018 アメリカがINF全廃条約
からの離脱を表明
アメリカのトランプ大統領は、INF全廃条約をロシアが守ってないと意見し、アメリカのINF全廃条約からの離脱を表明。


●アメリカ同時多発テロ事件(2001年)
 2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件は、アメリカの安全保障政策を大きく転換させました。イスラム教過激派テロ組織アルカイーダのリーダー、オサマ・ビン・ラディンの計画により、19人のテロリストが4機の飛行機を乗っ取り、うち2機がニューヨークの世界貿易センタービルに、1機がワシントンの国防総省ビルに激突、もう1機はアメリカ議会に追突させる予定だったのですが、乗客たちの抵抗にあいピッツバーグ郊外に不時着し、これらの事件で約3000人もの人々が犠牲になりました。
 この恐ろしいテロに対する報復として、アメリカのブッシュ大統領(息子)は、オサマ・ビン・ラディンを匿うタリバン政権のアフガニスタンを攻撃します。この頃からアメリカの安全保障政策は、冷戦時代の「ソ連との戦い」から「テロとの戦い」へと路線を転換させました。「テロとの戦い」と言えば正義っぽいのですが、実際にはこの頃からアメリカはイスラム教徒や中東の国々を敵視する傾向が強くなり、その結果、2003年にイラク戦争が勃発したり、トランプ大統領がイスラム教国からの入国拒否政策を実施したりしました。

●オバマ大統領の核廃絶宣言(2009年)
 アメリカ同時多発テロ事件以後のブッシュ大統領(息子)の戦争拡大路線にストップをかけたのが、アメリカ初の黒人大統領オバマ大統領でした。オバマ大統領はチェコのプラハにおける演説の中で「アメリカは世界で唯一核兵器を使用した国として、核廃絶に向けて行動する責任がある」と、アメリカ大統領として初めて核廃絶に向けた前向きな発言をしました。そして、この発言が評価されて、オバマ大統領は就任してたった9か月の状態でノーベル平和賞まで受賞してしまいました。

●新START(2010年)
 たった1回いいことを言っただけでまだ何もしていないオバマ大統領にノーベル平和賞が与えられた理由は、ノーベル財団が「ノーベル平和賞やったんだから、戦争なんて起こすなよ! 核兵器減らせよ!」というプレッシャーをかけたからだと言われています。
 そのプレッシャーがきいたのか、オバマ大統領の時代、アメリカが大きな戦争に参戦することはありませんでした。そしてロシアとの間に新STARTを結び、アメリカとロシアが保有する核弾頭の数をさらに減らすことにも成功しました。

●クリミア編入問題(2015年)
 ソ連の崩壊後、ソ連の権限を引き継いだロシアでしたが、ソ連崩壊による経済混乱によりかつての栄光を失ってしまいました。さらに、アメリカ同時多発テロ事件後、アメリカ主導でアフガニスタン戦争やイラク戦争が起きることにより、世界は米ソの二強時代からアメリカの一強時代に変わったとも言われました。
 しかし、エリツィン大統領のあとを引き継いだプーチン大統領の時代になると、ロシアの輸出製品である石油が世界的に値上がりを続けることによってロシア経済は一気に好調になり、ロシアがソ連時代の栄光を取り戻しつつあります。
 2015年には、ロシアの隣国ウクライナの中でもロシア人が多く住むクリミア自治州で、ウクライナ政府の許可なくロシアへの編入を問う住民投票が行われ、ロシア編入賛成派が勝利しました。その直後にロシアがクリミアに軍隊を派遣し、クリミア自治州はロシアの支配下に置かれてしまいました。
 他国の領土を強引に奪ってしまうロシアの行為を、欧米を中心とする国々(日本も)は批判しました。しかし、ロシアとかかわりの深い国々は賛成に回り、世界はロシアを支持する国々と、ロシアを批判するアメリカを支持する国々に二分されました。この頃からロシアとアメリカの新たな対立が意識されるようになり、新冷戦という言葉が使われ始めました。

 

●核兵器禁止条約(2017年)
 2017年にはとうとう国連で核兵器禁止条約が採択されました。今までは核実験を禁止するCTBTや核保有国を増やさないようにするNPTなどは作られてきましたが、とうとう核兵器を完全にもつことを禁止する条約が作られました。しかし、この条約が発効されるには50か国以上の批准が必要なのですがまだ19か国しか批准していないため、発効する見通しはまだまだたっていません
 この条約に日本は批准してないどころか、採択することにすら反対に回りました。世界唯一の被爆国であり、世界で最も核兵器の恐ろしさを知っているはずの日本が反対に回ったため、核廃絶を進めようとしている国々は大いにがっかりしました。日本政府としては「核保有国と非保有国との分断を避けるために反対に回った」という説明でしたが、実際の理由は、核保有国であり日本の同盟国であるアメリカに従ったためというところでしょうか?

●アメリカがINF全廃条約からの脱退を表明(2018年)
 少し前に説明したとおり、INF全廃条約は1987年にソ連のゴルバチョフ書記長とアメリカのレーガン大統領が結んだ、両国の中距離核兵器を減らす画期的な条約でした。しかし、アメリカのトランプ大統領はロシアがこの条約のルールを守ってないと主張し、INF全廃条約からの脱退を表明し、ロシアのプーチン大統領はトランプ大統領を批判しました。
 この条約は核兵器の中でも射程距離が中くらいの中距離核兵器を廃棄する条約です。逆に言えば、短距離核兵器と長距離核兵器は持ってもいいということです。しかし、射程距離がどのミサイルが短距離、長距離で、どのミサイルが中距離なのかはわかりにくい点もあります。なのでお互いが頑固者であるトランプが「違反だ!」プーチンが「違反でない!」と言い合っても、結局どちらかが譲り合うことはないように思えます。
 トランプ大統領は、アメリカだけがまじめに核兵器削減に取り組むのはフェアではないという意見ですが、そこにはロシアの核兵器よりも、INF全廃条約に縛られることなく核兵器を増やすことができる中国を警戒している側面もあると言われています。

 このように、現代の新冷戦時代は、アメリカVSロシアの対立+中国が大きな力を持ってきた三つ巴の対立になりつつあります。さらに日本ではあまり報道されていないのですが、中東ではサウジアラビアとイランの対立も激しくなりつつあります。日本では国際ニュースと言っても、北朝鮮、中国、北朝鮮、アメリカと時々ヨーロッパのニュースぐらいしか報道されることはありませんが、国際化はさらに進んでおり、世界情勢を知らないとかなりの損をしてしまう時代がすぐそこまでやってきています。そんな自覚を持ちながら、この時間の勉強と、次の時間の12時間目:地域紛争にもっと興味を持ってもらったらと思います。

9.非核化地帯条約
 最後に、核兵器廃絶運動の盛んな地域で結ばれている、その地域での核兵器の保有を完全に禁止する非核化地帯条約を紹介しましょう。核保有国とあまりつながりがないので、核兵器を保有する必要がないというのも、こういう条約に加盟する理由かもしれませんが、独自に非核地帯を宣言しているモンゴルも入れると、世界で116か国が非核地帯を宣言しているということになります。そう考えると国の数で言えば、核兵器に反対している国のほうが多数派ということになります。
 確かに、北朝鮮や中国の脅威に備えるためにも核兵器が必要だという人もいるかもしれませんが、核兵器で多くの人たちが殺されることに賛成する人はいないのではないかと思います。すぐには無理でも、核廃絶に向けて私たちが生きている間に少しでも前進が見られるように、このような動きを私は応援していきたいと思います。

年号 条約名 加盟国の地域・加盟国数
1968 トラテロルコ条約 ラテンアメリカ33カ国が加盟。
1986 ラロトンガ条約 南太平洋の13カ国が加盟。
1997 バンコク条約 ASEAN10カ国が加盟。
2009 ペリンダバ条約 アフリカ53カ国が加盟。
2009 セメイ条約 中央アジア5カ国が加盟。

2019年3月20日