9時間目:政党・選挙

1.政党政治
 政治家たちは、国会議員や内閣総理大臣になって、政治を自分が思っている通りにすることを夢見ています。しかし、選挙に当選して、その夢を実現するのは簡単なことではありません。そこで政治家たちは自分と同じような考えを持っている仲間を集めて、協力し合いながら選挙を戦い、より多くの仲間たちを国会に送り込むことにより政策を実現しようとします。このように、自分たちの政策を実現するために集まった、同じ考え方を持った政治家たちの集まりのことを政党といいます。

 日本人の中には、政党というのは権力とお金が欲しい政治家の集まりであり、無所属で自分の考えを貫いている人のほうがかっこいいようなイメージを持っている人もいますが、現実的には政党に所属していないと、自分の考えを政治として実現するのは難しい状況です。なぜなら日本では、国会の多数決で政治のリーダーである内閣総理大臣を決定し、政治の基本となる法律も国会の多数決で成立します。そうなると国会に自分の仲間がたくさんいたほうが、政策の実現の可能性が高いし、国会で自分の仲間が過半数を占めた場合、自分たちの考えを次々に実行に移すことができます。

 このように、日本の政治において重要な役割を果たす政党ですが、実は日本国憲法には政党に関する記述はありません。よって、政党に関するルールは、法律により少しずつ作られてきたということです。法律を作るのはもちろん国会議員(政治家)ですから、厳しいルールにしてしまうと、自分たちを苦しめることにもなってしまいます。そんな矛盾を抱えながら、ある時は厳しいルールが決められながらも、基本的には自由な活動が認められてきたのが、日本の政党だと言えるでしょう。

 では実際に、現在の日本の国会の政党別議席数を見てみましょう。


 現在、日本の国会で議席数が一番多いのは衆議院、参議院ともに自民党(自由民主党)で、衆議院で単独過半数を確保していますが、参議院では過半数に達していません。しかし、自民党はわりと考えの近い公明党連立政権を組むことによって、参議院でも過半数議席を確保し、権力を確実なものにしています。その結果、現在、政治を担当している自民党と公明党を与党、政権を担当できず与党と対立する立憲民主党、日本維新の会、共産党などを野党と言います。しかし、日本維新の会は政策によっては自民党に協力的なこともあるため野党と言い切れない面もありますし、無所属議員の中に与党に協力的な議員もいます。

 有力な政党が2つしかないアメリカの二大政党制と違って、有力な政党がたくさんある小党分立制(多党制)のフランスやドイツ、イタリアなどでは連立政権が盛んに作られています。日本の場合は一時期、自民党と民主党(現在は立憲民主党と国民民主党に分裂)による二大政党制になりかけた時期もあったのですが、民主党が失速したあと、二大政党制という構図は完全に崩れてしまいました。ただ、フランスやドイツのように有力な政党がたくさんあるかというと、自民党だけが目立って強い状況なので小党分立とも言えない。かといって自民党の一党独裁制というのは言い過ぎだし…。そう考えると、政党政治の形態としては、日本の政治は分類が難しい状況であると言えます。

2.日本の政党政治の歴史
 日本において本格的な政党政治が始まったのは1918年と言われています。そのころまでの歴史を説明しましょう。

 ●明治憲法下の政党政治

1918 原敬内閣誕生 大正デモクラシーの流れの中で、政友会を中心とする原敬内閣が政治を担当し、本格的な政党政治がスタートする。
1940 大政翼賛会成立 戦争の混乱の中、全ての政党が解散させられ、大政翼賛会に統一し、第二次世界大戦に突き進む。

 1889年に大日本帝国憲法(明治憲法)が成立し、日本でも国会議員選挙が実施されることになりました。その結果、日本にも板垣退助の自由党や大隈重信の立憲改進党などの政党が多く作られます。当時の日本の政治は江戸幕府を倒し、明治政府をつくるのに中心となった長州藩(山口県)と薩摩藩(鹿児島県)出身者が中心となって行う藩閥政治であり、特定の人たちだけで行われていたこのころの政治はまだまだ民主政治とはいえないものだったのですが、政府に批判的な人たちもこのような政党を作ることが可能になりました。しかし、このころの政党は幅広い国民を代表する大衆政党ではなく、一部のお金持ちたちだけで作られた名望家政党と呼ばれる種類の政党に過ぎませんでした。

 政党を作ることができ、政党に所属する人たちが国会議員に選ばれましたが、この頃の帝国議会(今の国会)ではまだ政党の力は弱く、藩閥政治が強い状態がしばらくは続いたため、政党主導の政治は行われませんでした。しかし、1898年に初めて帝国議会で大隈重信率いる憲政党を中心とする連立政権が過半数議席を占め、大隈重信首相を中心とする日本で初めての政党政治がスタートしましたが、いくつかの政党が藩閥政治勢力に裏切ったためたった4か月で終わってしまいます。

 1918年には大正デモクラシーという国民による民主化要求運動の中、原敬の政友会などの政党が力をつけ、原敬首相の下、本格的な政党政治がスタートします。それまでの選挙ではどこの政党が何議席とろうが、長州藩か薩摩藩出身の人たちが天皇から総理大臣に指名され、彼らが中心となって政治が行われることが決まっていたため、政党はほとんど無力な存在でした。しかし、原敬内閣からは、国会で過半数を占めた政党(勢力)が自分たちの中から総理大臣と国務大臣を出し、総理大臣と政党が中心となって政治を進めていくというスタイルが始まります。

 ただ、そんなに苦労して政治権力を手に入れたはずの政党内閣の政治家たちも、権力を手に入れたかと思うとワイロを受け取るなど、個人の利益に走るようになり、国民の支持を失っていきます。その結果、昭和に入ると五・一五事件二・二六事件といった軍部によるクーデター事件が起こり、腐敗した政党政治に反発した若い兵士により総理大臣や大臣が暗殺され、政党の代わりに軍部が政治権力を握る時代に入りました。そして、1940年には全ての政党に解散命令が出され、多くの政党が大政翼賛会という組織に統合されました。そして、この大政翼賛会を中心に日本は軍国主義路線に進み、第二次世界大戦という悲劇へと突き進んでいきます。

 ●55年体制

1945 第二次世界大戦終結 ・大政翼賛会は解散し、多くの政党が成立・復活!
・戦時中は禁止されていた社会主義政党の共産党(日本共産党)も合法化。
1955 55年体制始まる ・右派と左派に分裂していた社会党(日本社会党)が統一。
・自由党と日本民主党が合併して、自由民主党(自民党)が誕生。
自民党と社会党による二大政党制が始まる。
⇒しかし実際には、選挙に勝つのは自民党ばかりで、社会党は自民党の半分ぐらいしか議席を獲得できなかったので、1½政党制と言われた。
1961 民主社会党設立 社会党から離党した人たちにより結党。その後、民社党に名称変更。
1964 公明党設立 宗教団体「創価学会」を支持母体とする。
1976 ロッキード事件 田中角栄元首相がアメリカロッキード社から約5億円の賄賂を受け取り、有罪判決を受ける。
1976 新自由クラブ設立 ・ロッキード事件をきっかけに自民党を離党した人たちで結成。
⇒1983年からは自民党との連立政権を組むが、1986年には自民党に吸収合併。
1989 リクルート事件 自民党議員たちが、リクルート社から値上がり確実な未公開株を受け取る。
1991 佐川急便事件 金丸信自民党副総裁らが、佐川急便社から多額の賄賂を受け取る。

 第二次世界大戦が終了すると、日本には再び政党を作る自由が認められます。そんな中、革新系(左派)政党である社会党(日本社会党)が国会で多くの議席を獲得し、1947年からは社会党の片山哲が首相に就任しました。しかしその後、社会党はサンフランシスコ講和条約の解釈を巡って社会党右派、社会党左派に分裂してしまいます。それが1955年に一つの社会党に統合されることにより国会において一大勢力となりました。それに危機感を抱いた保守系(右派)政党である自由党と日本民主党も合併保守合同)することにより自民党(自由民主党)が誕生し、その後、日本の政治は自民党と社会党の二大政党制である55年体制が確立されました。1955年に始まったので55年体制といいます。

 しかし、55年体制は二大政党制とは言っても自民党の人気のほうが強く、いつも選挙に勝つのは自民党で、結局は選挙に勝った自民党の中から内閣総理大臣が任命され、自民党による政治が続いたので、55年体制とは自民党による単独政治のことであると言い換えることもできます。また、社会党は2番目に強い政党とは言っても、選挙で獲得することができた議席数は自民党の半分程度に過ぎず、結局55年体制の下で、社会党は選挙に勝利し政権を担うことはできませんでした。そのため、55年体制は「2大」政党制ではなく1½政党制と皮肉されました。

 自民党の単独政治が続き、それが当たり前になってくると、自民党の議員たちの中にはワイロをもらう人たちも増え、国民から信頼も少しずつ失われていきました。そんな中、新しい勢力として、1960年代には公明党民社党などの新しい政党も誕生していきます。

 1976年には自民党の田中角栄元首相らがアメリカの航空会社ロッキード社から約5億円のワイロを受け取り、裁判でも有罪判決を受けるというロッキード事件が発生します。その結果、自民党に不信感を持った河野洋平ら若手議員が自民党を離脱し新自由クラブという政党を作りました。ただ、この新自由クラブも1986年の中曽根内閣のときは、自民党と連立政権を組み、いつの間にか自民党に吸収され消えてしまいました。結局彼らは何がしたかったのかよくわかりませんが、これにより、55年体制の自民党単独政権が続いた中でも、1度だけ自民党が他の政党と連立政権を組んでいたという例外ができてしまいます。そして、このころから自民党を中心とする政治について国民もさらに不信感を持つようになり、国政選挙の投票率もそれまでは70%以上が普通だったのに60%前後と下がっていきます。

 さらに1989年の竹下首相の時期には、自民党の議員たちがリクルート社から、子会社であるリクルート・コスモス社の値上がり確実な売り出す前の株券をワイロとして受け取っていた疑惑が浮上したリクルート事件。1991年には自民党の影の実力者であった金丸信副総裁らが東京佐川急便社からワイロを受け取っていた佐川急便事件が発覚し、自民党を中心とする日本の政治に対する国民の不信感は一気に高まります。そして、このような悪い流れの中の1993年、55年体制はとうとう終わりを迎えます。

 ●55年体制の終結

1993 55年体制終わる ・自民党から小沢一郎ら若手議員が離脱して、自民党の宮沢喜一内閣の不信任を可決。彼らは新生党、新党さきがけなどの新党を作り、その後の衆議院解散選挙で自民党が敗北
・自民党以外の8政党(会派)が非自民連立政権を組み、細川護煕内閣が誕生。自民党が野党に転落!
・細川首相は政治改革を行うことを約束する。
1994 政治改革四法成立
(細川内閣)
★公職選挙法(改正)…衆議院に小選挙区比例代表並立制を導入。
衆議院議員選挙区画定審議会設置法…衆議院選挙で一票の格差が少ない選挙区割りをすることを目標。
政治資金規正法(改正)・・・政治家個人宛の政治献金を禁止。政治献金に上限金額を設定。政治家が政治資金を受け取るためには、その内容を管理・公表するために資金管理団体を作る。
政党助成法…国民一人当たり250円の税金を、国会の議席数や選挙の得票率に応じて、政党に分配する。

 佐川急便事件をきっかけとした政治スキャンダルに世の中が揺れる中、自民党の宮沢喜一首相はお金のかからない選挙制度への変更を目指した「政治改革」を行うことをテレビ番組の中で約束します。しかし、仲間であるはずの自民党議員から猛反発を受け政治改革を実行することはできませんでした。その結果、野党である社会党、公明党、民社党、社民連(社会民主連合)が宮沢内閣の不信任決議案を提出したのですが、この不信任決議案に仲間であるはずの小沢一郎、羽田孜ら29人の自民党議員も「今の自民党では政治改革は行えない」と判断して賛成し、不信任決議案は可決され、宮沢内閣は総辞職か衆議院の解散を迫られます。

 宮沢首相は衆議院を解散し、衆議院解散選挙が実施されました。小沢一郎と羽田孜は自民党を離党し新生党を、同じく自民党を離党した武村正義らは新党さきがけを結成し、選挙戦に臨みます。また、細川護煕が結成した日本新党も国民の人気を集めました。以下がその時の衆議院選挙の結果です。

自民党 222⇒223   民社党 14⇒15
社会党 136⇒70   新党さきがけ 10⇒13
新生党 36⇒55   社会民主連合 4⇒4
公明党 45⇒51   共産党 16⇒15
日本新党 0⇒35   無所属 29⇒30

 自民党は選挙結果としてはほぼ現状維持だったものの、多くの議員が離党してしまったことから過半数(255議席)を割り込んでしまいました。それに対し自民党以外の社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社民連の議席を全部足すと243議席となり自民党の223議席を上回ります。これに参議院で議席を持つ民改連(民主改革連合)を合わせた8つの政党(会派)が自民党を倒すために結集し、首相に日本新党の細川護煕を指名することに成功! 非自民連立政権が誕生します。これにより38年も続いた自民党による政治、55年体制は終結しました。

 ちなみに共産党は連立政権には入りませんでしたが、自民党のことは大嫌いだったので細川首相の指名には協力します。

 細川首相は国民の支持を得るために、宮沢内閣ができなかった政治改革に取り組みます。政治改革とはお金のかからない選挙を行うための改革です。そのために4つの法律の制定・改正が行われました。

  ① 公職選挙法(改正)
 それまでの衆議院議員選挙の方法は中選挙区制という1つの選挙区から2~4人が当選することができる制度でした。しかし、この方法だと1つの選挙区で議席を独占したい自民党が2~4人の候補者をぶち込み、政党による選挙戦というよりも自民党内の派閥同士の選挙戦になってしまいました。しかも、政党が同じということは政策や考え方はほぼ同じです。そうなると選挙によりお金をつぎ込んだ候補者が勝つといういやらしい選挙戦が行われていました。しかし、これが公職選挙法の改正により、小選挙区比例代表並立制に変更されます。この小選挙区比例代表並立制については後ほど詳しく説明します。

  ② 衆議院議員選挙区画定審議会設置法
 選挙においては地域ごとの一票の格差が問題になったことは4時間目:基本的人権のところでやりました。公職選挙法改正により、衆議院議員選挙の小選挙区制は全国を300(現在は295)のブロックに分けて行うことになったのですが、選挙区ごとの有権者数のデータをとり、一票の格差を2倍以内に押さえる区割りをするための機関として衆議院議員選挙区画定審議会が、衆議院議員選挙区画定審議会設置法の制定により設置されました。

  ③ 政治資金規正法(改正)
 政治資金規正法が改正され、一般人から政治家へのお金の寄付の規制が厳しくなります。政治家が正しい政治を行うための手助けとして、政治家にある程度の寄付をする政治献金は法律で認められているのですが、その金額があまりに高額だと、政治がお金目当てのものになってしまいかねません。しかもロッキード事件リクルート事件佐川急便事件など企業による高額の汚職事件も実際に発生してしまいました。その結果、政治献金のルールを定めた政治資金規正法がこの時大きく改正されました。そして政治資金規正法はその後も少しずつ改正され、今ではこのようなルールになっています。

  ・企業から政治家個人への政治献金は全面的に禁止
  ・個人から政治家への政治献金は資金管理団体宛に行う
  ・政治家には政治資金の収支の報告・公開を義務付ける
  ・政治献金の金額に上限を設定する

 資金管理団体とは、政治家が自分の活動組織の中につくる「政治献金を受け取り、管理するための部署」のことです。資金管理団体はどれだけのお金を、だれから受け取り、どんなことに使ったかを確実に管理し国に報告します。それまでは政治献金は直接政治家の財布の中に消えていき、政治家がどれだけお金を受け取っているかがわかりにくくなっていたので、その反省を生かし、政治資金を受け取る時には資金管理団体をつくることを義務付けました。

 今までの汚職事件では、企業から大物政治家への多額の政治献金が大問題になりました、そこで企業から政治家個人への政治献金は全面的に禁止され、企業の政治献金は政党に対してのみ可能になりました。しかし、企業が政党に政治献金をし、そのお金を政党が政治家個人に配るのであれば、同じことのような気もするし、企業の社長が個人として資金管理団体に寄付をしても問題はないわけで、抜け道はまだいくらでもあるということになります。国民感情からすると、政治家が多額のお金を受け取ることは面白くありません。しかし、政治家が政治活動を続けていくためにはある程度のお金は必要ですし、政治家になったためにお金に困るようになるのなら、誰も政治家になんてなろうと思いません。そのあたりは我々も冷静になって適度なルール規制を見守らなければなりません。

  ④ 政党助成法
 政治資金規正法改正により政治家がお金を受け取る方法が制限されると、政治家の活動資金が少なくなる心配がでてきたため、税金の中から政党を通じて政治家に政治資金をプレゼントしてあげようというのが政党助成法です。言い換えると、「これからは政党助成法により、国からきれいなお金をプレゼントするのだから、わざわざ汚いことしてお金を集めるなよ。」というのが政党助成法の目的です。

 この法律により、国民1人当たり250円の税金(約310億円)が、所属国会議員が5人以上いるか、国会議員選挙で得票率が2%以上の政党に、国会の議席数、選挙の得票数に応じて各政党に配られるようになりました。また、共産党は「政党助成金は国民に政治献金を強制しているのと同じで、違憲である」と主張し、政党助成金の受け取りを拒否していることで有名です。

 ●連立政権の時代へ

1994 自民党が政権復帰 自民党が社会党、新党さきがけと連立政権を組むことにより、与党に復帰! 多数派は自民党だが首相は社会党という村山富市内閣の誕生。
1996 民主党結成 社民党と新党さきがけを離党した人を中心として自民党に対抗する政党を結成、その後、自由党も合流して最大野党に。
1999 党首討論開始 イギリスのクエスチョン・タイムをモデルに、予算委員会のない水曜日に、首相VS野党の党首による公開討論会が行われるようになる。
※予算委員会があったり、首相の日程が合わなければ開催しなくてもよいため、党首討論の開催がゼロの年もあった。
2001 小泉内閣誕生 自民党の森首相の支持率が急落する中、自民党は起死回生の策として、国民から人気の高かった小泉純一郎を首相に抜擢。
2005 郵政解散選挙 郵政民営化案を否決された小泉首相が衆議院を解散。国民の指示を受けた小泉自民党が大勝利をおさめ、郵政民営化を実行。
2009 政権交代の実現 麻生内閣(自民党)による衆議院解散選挙後、民主党が歴史的な大勝! 自民党が惨敗。その結果、民主党を中心とした鳩山由紀夫内閣が誕生。
2012 自民党の復活 東日本大震災への対応など、民主党政権の決められない政治に国民が失望し、衆議院解散総選挙で自民党が大勝。自民党と公明党の連立政権である安倍晋三内閣が誕生。


 1993年に自民党の長期政権が倒され、細川内閣によって政治改革も行われ、国民もこれからは新しいクリーンな政治が行われるのではないかと期待をしたところもあったのですが、細川内閣の欠点は、本来は考え方が微妙に違うはずの8つの政党が一緒になって政治を行ったことにありました。とくに、社会党はこの連立政権の中で最も多い議席を占める政党だったにもかかわらず、日本新党の細川首相と、影の実力者といわれた新生党の小沢一郎たちと度々意見が対立し、連立政権において居心地の悪い思いをしていました。そんな中、細川首相が突然辞任し、新生党の羽田孜が新しい首相になると、羽田首相と意見が合わなかった社会党は連立政権から離脱します。

 そんな中、社会党に声をかけたのが自民党です。政治権力を奪われた自民党は、権力を取り戻すための方法を探していたところ、社会党と新党さきがけが非自民連立政権に不満を持っていたことを知り、自分たちとの連立政権を組むことを提案します。さらに自民党は社会党に対して「社会党の党首を内閣総理大臣にする」という条件も提示します。この提案を受け入れた結果、1994年に自民党、社会党、新党さきがけによる連立政権が国会において過半数議席を占め、社会党の村山富市を首相とする連立政権がスタートし、自民党は1年足らずで与党に復帰します。

 ここで注目されるのは55年体制の中でライバルであったはずの自民党と社会党が手を結んでしまったことにあります。特に社会党の支持者の中には「自民党が嫌いだから社会党に投票していたのに…」という人も多かったため、社会党の突然の裏切りに多くの支持者が失望し、その後、社会党は人気を失っていくことになります。そのような状況に責任を感じる中、1996年に村山首相が辞任を発表し、変わって自民党の橋本龍太郎が新たに首相に就任し、連立政権を組んでいた社会党(その後、社民党に党名変更)と新党さきがけは次第に力を失い、自民党主導の政治がここからまたしばらく続くことになります。

 橋本内閣の後を引き継いだ小渕内閣の時代に自民党は自由党、公明党と連立政権を組みました。自由党とは連立を解消しましたが、公明党とはその後もずっと連立政権を組み、公明党は自民党にとって重要なパートナーとなっています。

 ●党首討論(クエスチョン・タイム)
 なお、この小渕内閣の時から始まったのがイギリスのクエスチョン・タイムを日本にも取り入れた党首討論です。これは、国会の会期中の水曜日に総理大臣と野党の党首が45分間の公開討論を行うというものです。各政党のトップ同士の白熱した討論は国会を盛り上げ、各政党の政策がわかり、国民にとっても政治がわかりやすいものになると期待されて始まった制度ですが、残念ながら日本の政治家は討論がヘタクソだというのが、私の感想です。首相就任直後の小泉首相はなかなか面白い発言をしていましたが、首相の地位が定着してくると、結局、守りの討論に入ってつまらなくなってしまいました。また、2000年の第1回の党首討論は、小渕首相に対する民主党代表鳩山由紀夫の質問から始まったのですが、歴史的な一番初めの質問が「小渕首相、あなたは今朝、朝ごはんに何を食べてきましたか?」だったというのは、がっかりしました。鳩山氏にとってはとっておきのギャグだったのかもしれませんが、国民の誰一人としてうけていた人はいなかったと思います。

 村山内閣成立により、野党に転落した非自民連立政権を形成していた人たちで新進党が結成されました。この新進党が自民党の対抗勢力として注目されていましたが、元々は多くの政党の寄せ集めに過ぎなかったためすぐに分裂し、いくつもの小さな政党に分かれてしまいます。この新進党に代わって力をつけたのが新党さきがけを離党した鳩山由紀夫、菅直人たちが結成した民主党でした。民主党は幅広い人たちからその党員を募り、反自民勢力が民主党に結集し自民党に対抗できる勢力に成長します。

 ●小泉内閣の誕生
 そんな民主党の勢いを止めたのが小泉純一郎でした。小渕首相の急病(その後死去)により、自民党の実力者である森喜朗が内閣総理大臣に就任しましたが、この森首相が、国民から大不評で、彼が問題発言をする度に森内閣と自民党の支持率が下がり続け、このままいけば、次の選挙で自民党が惨敗するのは確実な状態でした。焦った自民党は、森首相に辞任してもらい、その代わりに、自民党の中では人気はありませんでしたが、国民からの絶大な人気があった小泉純一郎が内閣総理大臣に就任します。

 その小泉首相が就任前から公約として掲げていたのが郵政民営化です。6時間目:内閣のところでも説明しましたが、小泉首相は当時、国の機関であった郵便局を民営化したほうが、運輸業界や金融業界が活性化すると考え、郵政民営化法案を国会に提出します。しかし、小泉首相の味方であるはずの自民党の中には、郵便局関係者と選挙協力などで良好な関係の国会議員も多く、彼らの反対により、郵政民営化法案は否決されてしまいました。

 怒った小泉首相は衆議院を解散し、郵政民営化に反対して自民党を離党した候補者の選挙区には、刺客と呼ばれる小泉首相推薦議員を立候補させます。この動きが国民には「古い考えの政治家をやっつけるかっこいい小泉首相」のように映り、小泉自民党は国民の支持を得て214議席→296議席の大勝利! 自民党政権を不動のものにしました。

 ●民主党政権の誕生
 国民からの高い支持を受けながら、やりたいことをすべてやり切った小泉首相は2006年に首相を辞任し、彼の忠実な部下であった安倍晋三に首相の座を譲ります。その結果誕生したのが第一次安部内閣です。しかし、このあとは安部首相→福田首相→麻生首相とほぼ1年ごとに首相が代わります。当時の彼らは首相としては力不足だったというのが一番の原因でしょうが、彼らの前の小泉首相があまりにも人気者だったため、国民からすると物足りなく感じたというかわいそうな面もあったと思います。まあ、その反省を生かしてその後、復活したのが安部首相ということが言えるでしょう。

 小泉首相時の自民党躍進により、一度は力を失いかけた民主党でしたが、安部首相→福田首相→麻生首相と不人気な自民党の首相が続き、自民党の支持率が下がるに従って再び力を盛り返してきます。そして、森首相に匹敵する問題発言だらけの麻生首相のおかげで、自民党の人気がどん底に落ち込んだ2009年に衆議院解散選挙が行われます。

 この選挙でとうとう民主党が大勝し、民主党鳩山由紀夫を首相とする鳩山内閣がスタートしました。これにより自民党は二度目の野党転落を経験します。衆議院で民主党が過半数議席を確保していたものの、参議院では過半数に達しなかったため民主党は社民党と国民新党と連立政権を組みました。しかし、この民主党も、元々は別々の政党を離党した考えの微妙に違う人たちの集まりであったため、考えがまとまりにくく、与党になったはいいものの、公約としていた政策をほとんど実行できない中、彼らもほぼ1年ごとに鳩山首相→菅首相→野田首相と首相が交代していきます。とくに2011年の東日本大震災の時の菅首相の対応はあまりにもひどく、首相が変わっても民主党内閣への支持率は確実に低下していきました。

 そして、野田首相がヤケクソで解散した2012年の衆議院解散選挙で安倍信三率いる自民党に大惨敗し、自民党による第二次安倍内閣が誕生し、自民党は約3年で政権に復帰します。

 ●第二次安倍内閣とその後
 その後も民主党は自民党に選挙に負け続け、今は立憲民主党国民民主党などに分裂してしまいました。このように、自民党の対抗勢力であるはずのこの旧民主党勢力がまとまり切れていないことは、自民党に有利に働き、自民党が選挙に大勝し、第二次安倍政権が長期政権化するのを助けることになりました。

 第二次安倍内閣は2012年から2020年まで、7年8か月も続く歴代最長政権となりました。もしコロナのゴタゴタがなければまだまだ続いていたような気もします。これだけ聞くと、安部内閣が小泉内閣に匹敵するような国民の大人気の内閣だったようにも聞こえるのですが、実際にはそうではありません。第二次安倍政権が関わった3回の衆議院議員総選挙の投票率は59.32%(2012年)、52.66%(2014年)、53.68%(2017年)と、これらは当時の戦後ワースト1,2,3位であり、安倍政権を支えた衆議院議員選挙では、国民の約半分が投票に行ってない状況だったのです。それに対し、自民党政権を倒し民主党政権を誕生させた時の衆議院議員選挙の投票率は69.28%(2009年)でした。ここまで投票率を下がった原因はやはり民主党にあります。つまり「安部首相の自民党は嫌いだけど、自民党の代わりに(旧)民主党が政治をやったらもっとひどくなりそう」と思った人が投票に行かなくなった結果、民主党などの野党の票が伸びず、安部自民党に有利に働きました。逆に言えば、「自民党のことは嫌いだけど、ほかに投票する党がないから投票に行かなかった人」たちが魅力を感じるような野党が育ってくると、もっと拮抗し白熱した選挙戦となり、政治はもっと面白くなってくるのかもしれません。

 野党の国会での答弁やテレビでのインタビューを見ていると、彼らは「政治を良くするための発言」ではなく、「国民たちにアピールするための発言」をしていると感じることばかりです。私たちが聞きたいのはライバル政党の悪口ではなく、あなたたちがどんな政治をやってくれるかということです。そう考えると、選挙に当選するのが目的ではなく、日本や世界の政治を本気でよくしたい。そんなきちんとした政党が現れたら、国民はちゃんと選挙に行ってくれると私は思うのですが…? どうですかね? わたしの考えもまだまだ甘いですかねえ?

3.日本の政党政治の課題

 ●議員政党
 国によっては、政治家以外の人たちも気楽に政党に入党し、選挙の時にはお祭りのようにみんなで盛り上がり、何より政治に関心を持っている。このように、誰でも気楽に党に入党し、多くの政治家以外の党員からも構成されている大衆政党が形成されているアメリカのような国もあります。しかし、日本では政党に入党するのは政治家を中心とする一部の人たちが中心で、一般の国民にとっては政党なんて遠い存在であるのが現状です。このように国会議員などの政治家のみによって構成される政党のことを議員政党といいます。別に日本でも一般大衆が政党に入れないわけではないので、政党政治を盛んにするために、たとえ政治家にならなくても党に加入して、支援したくなるような大衆政党を日本でも育てることが課題であるといえます。

 ●族議員
 国会議員の中には、特定の省庁やその関連企業と深いつながりを持ち、特定の省庁とその業界の利益を優先する族議員と呼ばれる国会議員がいます。例えば財務省(旧大蔵省)と仲のいい大蔵族、文部科学省(旧文部省)と仲のいい文教族、国土交通省(旧建設省・旧運輸省)と仲のいい建設族・道路族、経済産業省(旧通商産業省)と仲のいい商工族などが有名です。

 例えば、商工族の国会議員は原子力発電所の建設や再稼働に積極的になり、道路族の国会議員は高速道路の建設に積極的になり、大蔵族の国会議員が内閣総理大臣になることにより消費税増税を実行したといったこともありました。どの政治家のことを言いているのかはあえて伏せますが(わからない人はまず総理大臣になった人が何族なのか考えてみましょう!)、国民の多くが原子力発電に反対しているにもかかわらず、政府が原子力政策を推し進めているのは、族議員の力が働いていることも影響しています。

 ●派閥
 長らく政権を担当してきた自民党の中では派閥という存在が大きな役割を果たしてきました。特に、中選挙区制の頃は、一つの選挙区に複数の自民党候補者が立候補していたため、違う派閥に所属する自民党候補同士が選挙で戦うことも多く、選挙資金の援助もしてくれる派閥というのは自民党員にとって大切な存在でした。しかし、中選挙区制が廃止され1つの選挙区に1人ずつしか立候補しない小選挙区制が採用されると、選挙における派閥の存在意義は依然と比べて弱くなってしまいました。それでも、派閥に所属していれば、政治資金を受け取ることができたり、選挙の時に協力してもらえたりと、とても便利だったので、自民党議員のほとんどがいずれかの派閥に所属していました。

 しかし2024年に、自民党の安部派が政治資金パーティーを使って、違法な裏金を集めていることが発覚し、派閥の存在自体が大問題となりました。世間からの批判を受けて、まずは岸田首相が派閥長を務める岸田派が解散を決定し、その後、安部派も解散し、全ての派閥を解散させることが自民党の方針として決定しました。なので、自民党の中にもう派閥はなくなりました…と言いたいところですが、私の予想では、派閥がなくなっても、自民党の中に派閥のような仲良しグループはこっそり存続し、国民が裏金の問題を忘れたころ、また派閥は復活するような気がします。

 ●圧力団体(利益集団)
 日本の政治は圧力団体の力が強いのも特徴です。圧力団体には次のようなものがあります。

日本経済団体連合会(経団連) 約1650会員。大企業などを会員とした団体。
経済同友会 1537人。経営者個人を会員とした団体。
日本商工会議所(日商) 約123万事業所。中小企業を会員とした組織。
日本労働組合総連合会(連合) 約700万人。労働組合の全国組織。
全国農業協同組合中央会(全中) 約1035万人。主に農業経営者が加入する全国の農協(JA)を統合する組織。
日本医師会 約17万人。全国の医師(開業医)の集まり。


 圧力団体の問題点として、圧力団体は政党や政治家に多額の政治献金を提供したり、その影響力や加盟人数の多さから選挙の時には大きな組織票として当選のための大きな要因となるので、政治家たちもついつい圧力団体の要求どおりの政治を行ってしまうことにあります。先ほど話した日本政府の原子力政策についても、国民の多くが原発再稼働に反対しても、自民党の有力な圧力団体である経団連が原発推進を主張しているので、自民党政権にとっても原発推進は外すことのできない政策となっています。

 アメリカでは、圧力団体の代理人として国会議員と交渉を行うロビイストという存在が法律で認められており、議会に登録されたロビイストが国会議員の控室(ロビー)で交渉を行い、圧力団体の利益にかかわる法律の成立・否決・修正のための働きかけを行います。日本ではロビイストは認められていませんが、族議員の国会議員たちが関係団体代表と接触を行いアメリカのロビイストたちと同じ役割を果たしていると言えます。

 ●党議拘束
 日本の政党は、国会の議決において個人の意見ではなく、所属政党の決定に従って投票させることを義務付ける傾向があります。これを党議拘束といいます。

 党議拘束のないアメリカでは、共和党のトランプ大統領が提案した法案に対し、味方である共和党議員が議会で過半数を占めているはずなのに議会が否決したり、逆に民主党のオバマ大統領の時代には、敵であるはずの共和党議員が議会で過半数を占めていたにもかかわらず、オバマ大統領が共和党議員に対して丁寧に説明を続けた結果、何人かの共和党議員の賛成を得て法案を議会が可決することもありました。

 それが民主主義、話し合いの面白いところでもあるのですが、日本の場合は、自分の政党の意見に国会議員は従わないといけないというルールがあるため、選挙で自民党が過半数議席を占めてしまえば、自民党が提案する法案は自動的に次々と可決していき、野党の法案は次々と廃案になっていくという、話し合いの意味が全くない国会になってしまう傾向があります。その結果、日本の国会は話し合いの場ではなく、適当な時間稼ぎをした後に多数決を取るだけの場所になりつつあります。そんな国会中継なんて、誰も見たくないですよね?

4.選挙権の歴史
 ここからは選挙の話です。選挙とはいっても、いろいろな選挙がありますが、次の条件を満たす選挙が民主的なよい選挙だといわれています。

  ・ 普通選挙・・・差別されることなく、誰でも参加できる選挙(⇔制限選挙
  ・ 平等選挙・・・一人に同じ価値の投票権が与えられている選挙
  ・ 直接選挙・・・国民が直接、自分が当選させたい人に投票できる選挙
  ・ 秘密選挙・・・誰に投票したかは秘密にしてもらえる選挙

 日本で初めて選挙が始まった頃、普通選挙は行われておらず、当時の選挙は一部の金持ちしか投票できなかったり、女性には選挙権が与えられてなかったりといった制限選挙でした。しかし、そんな制限選挙も少しずつ改善されていきます。そんな選挙権の歴史をまとめました。

年号 事件 選挙権の条件
1889 日本で初めて選挙権が確立(自由民権運動) 直接国税15円以上を納める25歳以上の男子
1925 男子普通選挙の確立(大正デモクラシー) 25歳以上の男子
1945 男女普通選挙の確立(GHQによる占領政策) 20歳以上の男女
2015 公職選挙法改正 18歳以上の男女


  1889年に日本で初めて選挙権が認められましたが、このときに選挙権が与えられたのは税金(直接税)を15円(現在の物価に直すと約440万円)以上も払っている大金持ちだけで、しかも女性にはまだ選挙権は与えられていなかったので、人口に占める選挙に行ける人の割合はたった1.1%に過ぎませんでした。しかし、1925年の加藤高明内閣のときに25歳以上の全ての男子に選挙権が認められ、その後、女性にもやっと選挙権が認められたのは第二次世界大戦終了後の1945年、日本国憲法が制定される直前の出来事でした。そして2105年に公職選挙法が改正され、選挙権は18歳以上の男女に与えられています。

 世界でいえば、男子の普通選挙は1848年フランスで始まり、世界で女性にも選挙権を初めて与えたのは、意外なことに1893年ニュージーランドです。ニュージーランドで1年間の留学生活を送った私の感想としては、そういえばニュージーランドでは女性が社会で活躍する場が多く、場面によっては女の人が男より強かったような気もしました。まあ、私のホームステイ先のホストマザーがパワフルで個性的な方で、ホストファーザーが柔らかくて人のんびりした方だったので、勝手にそんな印象を持っただけなのかもしれませんが…。

5.選挙制度の種類
 何百人もの国会議員を選ぶ国会議員選挙は、国ごとでいろいろな種類があります。その代表的なのが小選挙区制大選挙区制です。さらに、政党ごとに議席を割り当てる比例代表制というのもあります。

種類 特徴 長所 短所
小選挙区制 狭い選挙区から、1人ずつ当選する。 ・選挙区が狭いため、選挙費用が安くすむ。
・政治が安定する。
・小さな政党は当選しにくい。
死票が多い。
ゲリマンダーの危険がある。
大選挙区制 広い選挙区から、2人以上当選する。 ・小さな政党でも当選しやすい。
・死票が少ない。
・選挙区が広いため、選挙費用が高くつく。
・政治が不安定になる。
比例代表制 人気のある政党から、ドント式で議席を割り当てていく。 ・小さな政党も当選しやすい。
・死票が少ない。
・政治が不安定になる。
・人物で当選者を選びにくい。


 小選挙区制大選挙区制のポイントは、小選挙区制は1位しか当選できないというのと選挙区が狭いということ、大選挙区制は2位以下でも当選できるということと選挙区が広いということです。このポイントを押さえながら、もう一度それぞれの長所と短所をチェックして見るとその違いがよくわかるはずです。

 また死票とは政治に生かされなかった国民の票のことで、1位しか当選できない小選挙区制は2位以下に投票した人の票は全てムダな死票になってしまうのに対し、当選者が何人も出る大選挙区制は死票が少なくなるという特徴があります。

 さらに、自分の政党に有利になるように不自然な形の選挙区を作ることをゲリマンダーといいます。これは1812年にアメリカのマサチューセッツ州知事ゲリーが自分の政党(民主共和党)が有利になるように選挙区の区割りをしたところ、選挙区の形がサラマンダー(ギリシア神話に出てくる火を吐くトカゲ)のようになったことから、ゲリマンダーと名づけられました。しかも、実際このゲリマンダーのおかげで、民主共和党は大勝利を収めることができました。ちなみに日本でも1956年に鳩山一郎首相が自民党に有利になるような選挙区割りを国会に提出してハトマンダーと呼ばれました。しかし、これは結局国会で廃案になります。

 ●比例代表制
 基本的に比例代表制とは、政治家個人ではなく政党の名前を書いて投票し、人気のある政党に当選議席を振り分け、各政党が提出した名簿に載っている政治家の中から当選者を決定する方法です。下の表を見てください。

政党名 友情党 青春党 忍耐党 努力党 勉強党
得票数 90,000 87,000 42,000 8,100 6,000
÷1 ①90,000 ②87,000 ⑤42,000 8,100 6,000
÷2 ③45,000 ④43,500 21,000 4,050 3,000
÷3 ⑥30,000 ⑦29,000 14,000 2,700 2,000
÷4 ⑧22,500 21,750 10,500 2,025 1,500
÷5 18,000 17,400 8,400 1,620 1,200

 比例代表制では政党ごとに獲得した票の数をまとめ、それらを1から順番の整数で割り算していきます。そして、割り算をしたあとの数のうち、大きい数を持っている党から順番に議席を割り当てていきます。表の場合、8議席を5つの政党で争った結果、友情党が4議席、青春党が3議席、忍耐党が1議席、努力党と勉強党は0議席ということになります。そして、選挙の前に各政党が提出していた候補者名簿の中から獲得した議席数の数だけ当選者を決める。これが比例代表制であり、このような議席の配分・計算方法のことをドント式といいます。

 通常、比例代表制では名簿の上から順番に当選者を決める拘束名簿式比例代表制が主流ですが、参議院の比例代表制では名簿の順番に関係なく当選者が決まる非拘束名簿式比例代表制を採用しています。これについては後で詳しく説明します。

6.衆議院と参議院の選挙制度
 では、実際に日本の国会議員はどのような選挙方法で選ばれているのか見ていきましょう。

衆議院
465名(任期4年、解散あり)
小選挙区比例代表並立制
  参議院
248名(任期6年、3年ごとに124人ずつ選挙)
選挙制+比例代表制
【うち289名】小選挙区制
=全国を289のブロックに分け、1つのブロックから1名ずつ当選。
  【うち74名】 選挙区制
=45都道府県ごとで選挙を行い、1つの選挙区から1~6名の当選。
※高知・徳島、島根・鳥取は2県で1名選出。
【うち176名】 拘束名簿式比例代表制
=政党名を書いて投票させ、各党が提出した名簿の上位から当選していく。(全国を11のブロックに分けて行う)
  【うち50名】 非拘束名簿式比例代表制
=政党名か政党が提出した名簿にある人の名前を書いて投票させ、人気のある政党の人気のある人物から当選していく。(全国を1つのブロックで行う)
⇒名簿の中から優先的に当選させたい人物を指定できる特定枠が設定可能
※候補者は小選挙区制と比例代表制の両方に立候補することができる(=重複立候補)   ※候補者は選挙区制か比例代表制かどちらかにしか立候補できない。


●衆議院
 衆議院は1994年に公職選挙法が改正されるまで、中選挙区制による選挙が行われていました。中選挙区制とは各選挙区から2~6名ずつ当選者を出す選挙の方法で、大選挙区制の一種です。ではなぜ、中選挙区制という名前がついたのかというと、1982年までは参議院選挙で、日本全国を一つの選挙区として選挙を戦い、上位50位まで当選する全国区と呼ばれるまさに(巨?)大選挙区制が行われていたので、この参議院の大選挙区制と区別するために中選挙区制と呼ばれていました。ちなみに中選挙区制も参議院の大選挙区制も現在はもう行われていません。

 しかし、中選挙区制が1994年の細川内閣による政治改革により、小選挙区比例代表並立制に変更されます。小選挙区比例代表並立制とは衆議院議員465人のうち289人を小選挙区制で選び、残り176人を11のブロック(北海道、東北、北関東、東京、南関東、北陸信越、東海、近畿、中国、四国、九州)ごと比例代表制で選び出すというものです(始まった時は定数480人、小選挙区制300人、比例代表制180人)。そして、この小選挙区比例代表並立制の一番の特徴は重複立候補ができるという点です。

 重複立候補とは候補者が小選挙区制と比例代表制両方に立候補することができる制度です。そのおかげで例え小選挙区制に落選したとしても、比例代表制で復活当選することができるので、政治家からするとラッキーです。このことを一回死んだのに生き返ったという意味を込めてゾンビ当選ともいいます。ただ、この制度は小選挙区制で国民からNoを突きつけられて落選した候補者が当選してしまうのでおかしいという批判もあります。

 さらに、惜敗率を計算するというのもこの選挙制度の大きな特徴です。各政党は候補者名を載せる比例代表制の名簿において、重複立候補した候補者たちを同じ順位に複数人載せることができます。例えば2014年の衆議院総選挙における自民党北海道ブロックの代表者名簿を見てください。

自民党 北海道ブロック 比例代表名簿

順位 候補者名 小選挙区の立候補と当選結果 比例代表の当選(惜敗率)
W辺さん 立候補なし(比例代表制のみ)
F橋さん 北海道 1区 × ×( 90.9%)
2 Y川さん 北海道 2区 ○  
2 T木さん 北海道 3区 ○  
2 N村さん 北海道 4区 ○  
2 M村さん 北海道 5区 ○  
2 I津さん 北海道 6区 × ○( 97.2%)
2 I東さん 北海道 7区 ○  
2 M田さん 北海道 8区 × ○ (93.4%)
2 H井さん 北海道 9区 ○  
2 N川さん 北海道 11区 ○  
2 T部さん 北海道 12区 ○  
13 S水さん 立候補なし(比例代表制のみ) ×
14 K澤さん 立候補なし(比例代表制のみ) ×
15 Hさん 立候補なし(比例代表制のみ) ×


 色分けを説明すると、青色が比例代表制のみに立候補した人、赤色オレンジ色が小選挙区制に立候補しながら小選挙区制に落選した時のためにすべり止めで重複立候補を利用している人たち、そして、オレンジ色が小選挙区制で当選したので比例代表制で当選する必要がなくなったうれしい人たち、赤色が小選挙区制で落選してしまったので比例代表制で救ってもらいたい人たちです。2位の順位に11人もいることからもわかるように、衆議院選挙における比例代表制の名簿には、重複立候補を利用する人を同じ順位に複数人載せてもいいことになっています。

 この時の比例代表制選挙の北海道ブロックで自民党は3議席を獲得したので、この名簿の中から3名の国会議員を決定しないといけません。重複立候補をした人たちの中で小選挙区制で当選した人たちは2回当選させる必要がないので、比例代表制の名簿から削除します。そして残った人の中から、まずは比例代表制のみの立候補で順位が1位のW辺さんが1人目の当選です。ところが順位が2位の人たちのうち、小選挙区制で落選した人たちが3人もいます。この3人の中から残る2人の当選者を決定しないといけないわけですが、このように小選挙区制で落選した同じ順位の人たちの中から当選者を決定する時には惜敗率を計算します。惜敗率は(本人への投票数÷当選者への投票数)×100で計算することができる数値です。つまり北海道6区の小選挙区制においてI津さんは当選した人の97.2%の票を獲得して落選、8区のM田さんは93.4%の票を獲得して落選、1区のF橋さんは90.9%の票を獲得して落選しました。惜敗率を計算した結果、F橋さんよりもI津さん、M田さんの方がより惜しくも落選したということになるので、I津さんとM田さんが残る2議席に滑り込み、みごと復活当選することができたということになります。

●参議院
 参議院議員は248人いますが、参議院議員は3年ごとに半分ずつ選挙を行うので、1回の選挙で選ばれる参議院議員は124人です。この124人のうち、74人は47の都道府県ごとで選挙が行われる選挙区制で選ばれていましたが、2016年の参議院選挙から人口の少ない島根県と鳥取県、徳島県と高知県は2つの県で1人の国会議員を選ぶという合区が実現し、現在では45の選挙区で合計74人の国会議員を選んでいます。

 この選挙区制というのは「大選挙区制、小選挙区制どっちなんですか?」という質問を受けますが、答えは両方です。というのは45都道府県で73人を選び出す結果、1番人口の多い東京都は6位まで当選、次に人口の多い神奈川県や大阪府なども4位まで当選なので大選挙区制ですが、人口の少ない福井県や佐賀県などは1位だけが当選するので小選挙区制です。つまり、都道府県によって大選挙区制の都道府県と小選挙区制の県があるので、まとめて選挙区制と呼ばれています。

 そして、残る50人が比例代表制で選ばれます。衆議院選挙の比例代表制が11のブロックごとで戦われるのに対し、参議院選挙の比例代表制は全国を1つの選挙区として戦われます。そのため参議院の比例代表制の名簿には全国的に有名な芸能人やスポーツ選手が載ることも多いです。

 参議院の比例代表制には2001年から非拘束名簿式比例代表制が採用されました。非拘束名簿式では、投票者は投票用紙に、好きな政党の名前を書いてもいいし、政党が提出した名簿の中に好きな候補者の名前があれば、その候補者の名前を書いてもかまいません。つまり、下のような比例代表制の名簿があった場合、広島党の支持者は投票用紙に「広島党」と書いてもいいし、「新井T浩」と書いてもいいし、「菊池R介」と書いてもいいわけです。

 そして、投票終了後、選挙管理委員会はまず、「広島党」と書いてある票のほかに広島党の名簿に載っている候補者の名前を書いた票も広島党の票として集計します。つまり、「新井T浩」、「菊池R介」と書いてある票も「広島党」の票と同じ扱いとなります。それらの票を、前にやったドント式で割り算した数字に基づき、各政党に議席が割り当てられるわけですが、前もって名簿に順位が書いてある衆議院の拘束名簿式と違って、参議院の非拘束名簿式では得票数の高い人から順番に当選していきます。ただ、この方式の問題点として「新井T浩」のファンだけど、「広島党」は嫌いという人が「新井T浩」と書いて投票した票も「広島党」の票として数えられるため、各政党は国民に人気のある芸能人や元スポーツ選手などを強引に名簿に載せようとすることもあります。

 これにプラスして、2019年からは特定枠のルールが採用されます。参議院の比例代表名簿では、得票数が多い順に当選者が決まるはずですが、党の方針により優先的に当選させたい人がいれば、特定枠に指定し、他の候補者よりも先に当選させることができます。本来、名簿に名前が載っている人たちは、当選するために選挙活動を頑張らないといけないわけですが、特定枠に指定された人たちは、選挙活動をしなくとも、他の党員が頑張ってくれれば、努力をしなくても当選できるわけです。

 聞けば聞くほど意味不明の特定枠ルールですが、このルールは自民党の勝手な都合により作られたルールなのです。人口の少ない鳥取県と島根県、高知県と徳島県が選挙区制で合区となった結果、これらの県では2県で1人の国会議員しか選べなくなりました。しかも、この4県は元々自民党の力の強い県ですので、今まで4人選ばれていた自民党国会議員が2人に減ってしまいました。さらに、自民党の中でもこれらの選挙区では、どちらの県の出身者を立候補させるのか、ケンカも絶えなかったので、選挙区制で立候補できなかった県の候補者を比例代表制で立候補させることにしました。

 しかし、参議院の比例代表制は非拘束名簿式比例代表制であり、名簿に名前を載せてもらっても、頑張って選挙運動をして自分の票を獲得しないと当選することができません。しかし、鳥取、島根、高知、徳島の田舎者政治家なんて、全国的には有名でないし、全国の投票者から票を獲得して当選を勝ち取るなんてまず無理です。

 なので、自民党安倍政権は、参議院の比例代表制に特定枠を設定し、鳥取県と島根県から1人、高知県と徳島県から1人の合計2人を毎回、特定枠として当選させています。自民党の名簿に名前が載るということは、当選するのは確実ですので、全然選挙運動をしなくても国会議員になれるなんてズルいような気もしますが、田舎の県の国会議員を確保するためには必要な制度…と、思える人は思ってください。

7.日本の選挙
 ●戸別訪問の禁止
 日本の選挙は公職選挙法により、そのルールが定められています。公職選挙法の中に、選挙活動中のいろいろな禁止事項が書かれているのですが、その中でよく問題にされるのが戸別訪問の禁止です。これは、政治家とその支援者が個人の家を一軒一軒まわって、選挙活動をしてはいけないというものですが、外国では戸別訪問は許されている国がほとんどです。しかし、日本では戸別訪問を認めると、政治家が有権者にお金を配ったりする機会も増え、選挙違反を取り締まりにくいなどの理由から禁止されています。

 欧米では戸別訪問をすることによって、自分たちの実行したい政策を丁寧に説明することができるのですが、戸別訪問を禁じられている日本では、選挙カーで走り回りながら、スピーカーで自分の名前を連呼するしかないというとても民主主義とは思えない選挙活動を展開しています。日本がもっと政策を重視した選挙を行えるようにするためにも戸別訪問は解禁にした方がいいのではないかという意見もあります。

 ●連座制
 1994年の細川内閣の政治改革のときから、連座制が強化されました。連座制とは選挙に立候補した人以外にも、その家族や秘書などが選挙違反をしても、選挙違反と認められ、あまりに重い場合は、当選が無効になり、同一の選挙区から5年間立候補することができなくなることもあります。これにより政治家は、今後、選挙違反を「私は知りません。秘書が勝手にやったことです!」と言い訳してもあまり意味がなくなりました。

 では、その他の選挙制度改革に関する出来事を年表にまとめておきましょう。

1976 衆議院議員定数訴訟
1回目
1972年に実施された衆議院議員選挙の1票の格差が4.99倍であったことに最高裁判所が違憲判決。ただし選挙は有効(=事情判決)。
1982 参議院選挙改革 参議院議員選挙の全国区が廃止され、比例代表制に。
1985 衆議院議員定数訴訟
2回目
1983年に実施された衆議院議員選挙の1票の格差が4.50倍であったことに最高裁判所がまた違憲判決。ただし選挙もまた有効(=事情判決)。
1994 衆議院選挙改革 衆議院議員選挙の中選挙区制が廃止され、小選挙区比例代表並立制に。
1997 投票時間の延長 それまで投票時間は7時~18時だったのが、7時~20時に延長し、投票率アップを目指す。
2002 電子投票法 地方選挙においてコンピュータ端末を使ったタッチパネル形式の投票を認める。
2003 マニフェスト選挙 選挙期間中に各政党の公約(=マニフェスト)を国民に配布する選挙活動が行われるようになる。
2003 期日前投票の条件緩和 仕事だけでなく、投票日のレジャー、買い物なども期日前投票の条件として可能となる。
2005 在外日本人の投票 在外日本人には国政選挙において比例代表制の投票権しか与えていなかった公職選挙法の規定に最高裁判所が違憲判決を下したのを受け、在外日本人にも小選挙区制・選挙区制の投票資格も与える。
2013 ネット選挙の解禁 候補者のインターネットやメールを使った選挙活動を認める。
2015 選挙権年齢の引き下げ 公職選挙法の改正により、選挙権年齢が20歳以上から、18歳以上に変更。


 ●一票の格差
 特に説明しておきたいのが、一票の格差の問題です。例えば2021年の衆議院議員総選挙でも、人口の最も多い選挙区である東京13区では約48万人で1人の国会議員を選出したのに対し、人口の最も少ない鳥取1区では約23万人で1人の国会議員を選出しており、人口が2.08倍も違うのに同じ1人ずつしか国会議員を選ぶことができない状態(2.08倍の1票の格差)でした。

 実はこれはけっこうましになった方で、1972年の衆議院議員選挙では1票の格差が最大で4.99倍もあり、最高裁判所が初めて違憲判決を出してしまいました。違憲判決が出たということは、この時の選挙が憲法違反の選挙であるということであり、本来ならばこの時の選挙は無効になるはずです。しかしこの時、最高裁判所は事情判決を出したことにより選挙結果は有効になりました。事情判決とは「本来は選挙は無効にして選挙のやり直しをしないといけないけど、そんなことしたら、選挙費用がまたかかるし、選挙までの間にまた国会議員がいなくなって大変だから、選挙のやり直しはしなくていいよ」という判決です。まあ、大人の事情判決とでも言ったらよろしいでしょうか…。

 この時の違憲判決を受け、1974年の衆議院議員選挙では格差が2.92倍まで下がったのですが、その後格差はまた大きくなり、1983年の衆議院議員総選挙ではまた4.50倍にまで拡大し、この時も最高裁判所は2回目の違憲判決(と事情判決)を出しました。

 そう考えたら2021年の1票の格差が2.08倍なんて、昔から比べるとかなり頑張っているのではないかと思ってしまいます。しかし、現在、衆議院議員選挙の1票の格差は2倍以内にするべきだというのが最高裁判所の考えです。

 このように衆議院議員選挙における1票の格差について最高裁判所が違憲判決を出したことが2回あるのですが、このほかにも最高裁判所が1票の格差が「違憲状態」であると判断した裁判が、衆議院選挙で5回、参議院選挙で3回あります。「違憲状態」とは、「今回は許してやるけど、次の選挙までに何とかしないと次は違憲判決を出すよ」という状態のことです。近年は、違憲判決は出てないものの、この違憲状態という判断が出まくることにより、参議院選挙では最大6.59倍あった1票の格差が2016年の選挙では3.08倍衆議院選挙では4.99倍あった格差が2021年の選挙では2.08倍にまで縮小しました。

 ●電子投票、ネット選挙
 2002年に電子投票法が制定されることにより、地方選挙に限って投票所におけるタッチパネル形式の投票が認められるようになります。これを受けて、いくつかの市町村が電子投票を取り入れたものの、結局ほとんどの市町村が紙による投票方法に戻りました。理由としては、タッチパネル形式の機器の使用に多額の費用がかかることと機械が故障した場合、投票自体が無効になってしまう危険性があることなどがあげられます。本来の予定では、地方選挙での電子投票がうまくいったら、国政選挙でも導入するはずだったのですが、全然うまくいってないので、しばらくは国政選挙での導入はなさそうです。

 2013年の参議院議員選挙からネット選挙が解禁されました。これはインターネットを使って投票出来るようになったわけではなく、インターネットを使った選挙活動が解禁されただけです。それまでの公職選挙法ではインターネットを使った選挙活動は禁止されていたため、候補者や政党は選挙が公示された後はホームページやブログ、SNSの更新ができないという奇妙なルールが存在しました。しかしこれはどう考えても時代遅れであろうということで、ホームページやブログ、メールなどを使った選挙活動が認められるようになったわけですが、今も候補者本人でない人がメールを使って投票を呼びかけることができないなどのいくつかの制約があります。

8.世論の動向
 最後に世論についての話です。世の中の人の考えをまとめたものを世論といいます。我々は世論調査に基づいて発表された内閣支持率などを見ることにより世論というものを少しだけ実感ことができます。特に政治家たちは各メディアが発表する支持率を気にしながら政治や発言を行うこともあるので、世論が政治に与える影響は大きいはずなのですが、現代社会ではそのような世論の力が変化してきています。

 大量生産・大量消費の時代になることにより、我々は同じような商品を買うようになり、多くの人がユニクロの服を着てマクドナルドのハンバーガーを食べるといったように、同じような生活スタイルを送るようになりました。また、義務教育が普及情報化が進むようにより、多くの人が高校の普通科に進学し、Yahooニュースで情報を見るといったように、同じような知識・情報を持つようになります。その結果、世の中の人々が似たような人たちになり世論の平均化・画一化が進むという大衆社会が成立しました。つまり我々は個性を失い、みんな同じような人間になってしまったということです。

 大衆社会ではこのような問題が発生する危険性があります。

他人指向型 大規模な大衆社会で生きていると個人の無力感が強まり、自己で決定することを恐れ、他者(マスコミや流行)に従うことにより安心する。byリースマン孤独な群衆
ステレオタイプ マスコミからの商業主義(利益を誘導するような情報)・扇情主義(感情をあおるような情報)の情報を一方的に受け止めることにより、固定イメージを植え付けられ、これが世論操作・管理社会・全体主義につながる危険性がある。byオーウェル1984
ラズウェルの
政治的無関心
無政治的態度=政治に対して低い価値しか認めない無関心。
脱政治的態度=政治に対して幻滅し、政治から逃避する無関心。
反政治的態度=既成の政治制度そのものを積極的に否定する無関心。
リースマンの
政治的無関心
現代的無関心=複雑な現代政治に対する無力感、不信感からくる無関心。
伝統的無関心=政治は特別な人たちが行うもので、自分とは無縁と考える無関心。

 ※メディアリテラシー=マスメディア(テレビ、新聞、インターネットなど)からの情報を冷静に分析して、必要な情報を引き出し、情報の真偽を見抜くことができる能力←これが必要!

 特に心配なのが、若い人たちを中心とするあまりにも低い投票率です。確かに政治のことなんて難しくてよくわからないし、政治家なんて誰も同じに見えるし、自分が投票しなくてもどうせ自民党が勝つことは決まっているし、せっかくの日曜日だから遊びに行きたいし、といったような理由で選挙に行きたくない気持ちもわかりますが、そのような気持ちを国民の半分近くが持って投票を棄権することにより、国民の半分近くが望まない政治が行われている実態があります。

 2021年の衆議院議員選挙では全体の投票率が55.9%だった中、60代の投票率71.4%だったのに対し、20代の投票率が36.5%でした。これは60代が約1800万人中1200万人が投票に行っているのに対し、20代は約1200万人中400万人しか投票に行っていないという計算になります。こうしたデータを見ると、政治家が年金対策のような高齢者向けの政策に熱心なのに対し、子育て支援といった若者向けの政策に消極的な理由がこの辺りにもあるような気がしてきます。なぜなら、高齢者が喜ぶ政策をすれば1200万票の票が入ってくるのに対して、若者向けの政策をしても400万票しか手に入りません

 この人に投票したくなるようなすばらしい政治家がたくさん立候補すれば、もっと選挙に行こうという気になるのかもしれません。しかし、そんな人なんてめったに出てきません。そこで私が提案するのが、若い人たちがもっと投票に行って投票率を上げることにより、「俺たちもお前たちを監視しているぞ」というアピールを政治家に対してすることです。

 「素晴らしい世界を作るため」に「素晴らしい政治家に投票する」というのが理想の選挙なのですが、素晴らしい世界を作ってくれそうな政治家がいないときはせめて「よりましな世界にしてくれそう」な政治家らしき人を何とかみつけ、とりあえず投票してみる。そんなことで政治を変えることができる実感はないかもしれませんが、そのようなみなさんの小さな積み重ねのおかげで、10年、20年後の日本が今より少しはましになっている…。そんなイメージを持ちながら、ぜひ選挙に行ってみてください!

2024年3月30日