3時間目:平和主義

1.憲法第9条
 それではこれから、日本国憲法の内容に関する授業をしていきます。まずは、日本国憲法の三つの基本原理、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義のうち、平和主義についてです。日本国憲法で平和主義に関する記述は第9条に書かれています。

  ~第9条~
① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

 2014年に女性教育の必要性を訴えるパキスタンの少女マララさんがノーベル平和賞を受賞して話題になりましたが、事前の予想では「憲法9条を保持している日本国民」が受賞最有力と報道されたこともありました。このニュースを聞いた時、私は「うそ? おれ(憲法9条を保持している日本国民の1人)ノーベル平和賞もらえるん?」と、ちょっとうれしい気持ちになり、自分のノーベル平和賞の受賞発表を楽しみに待っていたのですが、マララさんが受賞したと聞き、マララさんと張り合おうとした自分が恥ずかしくなってしまいました

 そんなノーベル平和賞の候補にもなるぐらい世界的にも評価されている憲法9条なのですが、憲法9条のポイントは3つ、「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」です。さらにこの3つをわかりやすく言い直すと「戦争はもうしないし、軍隊は持たないし、こっちから戦争を仕掛けるなんてしない」と言うことになります。実は、憲法で侵略戦争を放棄している国は他にもあるのですが、全ての戦争を放棄し、軍隊まで持たないなんていっている国は日本ぐらいのものです。ぜひ世界中の国が日本を見習って欲しいものです。といいたいところですが、残念ながら、この理念を実際に日本が実行できているかというと、なかなかそうは言い切れない面があります。

 ここからは、色々な意見があるので説明するのは難しくなるのですが、少なくとも私は小学生の時、戦争を放棄している日本に生まれたことに、安心し、誇りに思ったのですが、その一方で、軍隊を禁止しているはずの日本になぜか軍隊のような自衛隊があること、あるいは、ここは日本であるはずなのに、外国の軍隊であるアメリカ軍がなぜか日本に駐留していることに違和感を感じました。では、このあたりを中心に解説して行こうと思います。

2.自衛隊
 前回の授業で触れたように、日本国憲法は当初アメリカ軍主導で作られました。そんな中、アメリカ軍は第二次世界大戦中に自分たちを苦しめた日本を、二度と戦争を起こさない国にするため、日本国憲法に平和主義の規定を取り入れました。実際、最初はマッカーサーも本気で日本を軍隊のない国にする気があったようです。しかし、状況が少しずつ変わります。第二次世界大戦終了後、アメリカにとっての敵は日本から社会主義国ソ連に変わります。そして、ソ連と同じ社会主義国が日本周辺に中国、北朝鮮と次々に誕生していきます。極めつけは1950年、日本のすぐそばの朝鮮半島で、その社会主義国北朝鮮が、アメリカの味方する韓国に攻め込んでくるという朝鮮戦争が発生します。

年号 事件 内容
1950 警察予備隊発足 朝鮮戦争により、日本を占領していたアメリカ軍が朝鮮半島に出兵してしまう。
・そんなアメリカ軍が留守の間に、ソ連が日本に進出してくることに警戒して、アメリカ軍が日本人による防衛組織をつくらせる。
・総員7万5000人。
1952 警察予備隊が
保安隊に改称
・1951年の日米安全保障条約を受けてパワーアップ。
・陸上の警察予備隊と海上の海上保安隊が合体して発足。
・総員11万人
1954 保安隊が
自衛隊に改称
・1953年のMSA協定を受けてパワーアップ。
・新たに航空自衛隊が設置され、陸・海・空のそろった自衛隊が発足。
・総員25万人

 朝鮮戦争時、日本を占領していたアメリカ軍は、日本に駐留中の軍隊のうち7万5000人の部隊を朝鮮戦争に派遣することを決定しますが、彼らが心配したのはアメリカ軍が朝鮮戦争に行っている間に、ソ連が日本に攻め込んできて、自分たちの家族が攻撃されたり、ソ連が日本をアメリカから奪うのではないかということでした。

 そこで頭を使ったアメリカは、自分の国は自分で守らせようということで、日本人による軍隊を作らせることにしました。しかし問題は、自分たちの提案で日本国憲法で軍隊を作ることを禁止してしまったことです。そこで、さらに頭を使ったアメリカは、軍隊ではなく、警察の予備の部隊である警察予備隊という組織を作り、彼らに日本の領土をソ連から守らせることにしました。しかし、この警察予備隊、警察の予備というわりにどうみても装備は警察なんかより強いし、いうなればどう見ても軍隊でした。そして、この警察予備隊が、1952年には保安隊、1954年には自衛隊と名前を変えることにより、現在の自衛隊が誕生します。

 問題は、軍隊を持つことを憲法で禁止している日本が自衛隊を持ってもいいのかということです。それに関して日本政府(自民党)は代々のこのような考えを主張してきました。「自衛隊は戦うための戦力ではなく、国を守るための実力であるので持ってもよい。」つまり、軍隊(=戦力)とは、よその国を攻撃し、攻め込むための部隊であるのに対し、自衛隊は他国に攻め込むことをせず、あくまで日本が攻め込まれたときに日本を守るための部隊であるので、憲法で禁止する戦力には当たらないというわけです。このような考え方のことを専守防衛といいます。だから自衛隊は戦力ではなく実力なので持っていいということなのです。わかるような、わからないような…。

3.在日米軍
 というわけで、自衛隊は軍隊ではないというのが日本政府の考えですが、実は自衛隊が軍隊ではないとしても、日本国内には確実に軍隊がいます在日米軍です。私が小学生のとき、クラスの女の子がゴールデンウィークに岩国までアメリカ軍を見に行ったと聞いたとき、私にはなぜ外国の軍隊が日本にいるのかよくわかりませんでしたが、これも自衛隊と同じく、アメリカのソ連対策が大きく影響しています。

年号 事件 内容
1951 日米安全保障条約 ・サンフランシスコ講和条約と同時に結ばれる。
・アメリカ軍が日本に残り、日本周辺の治安を(ソ連から)守る。
・日本国内に在日米軍基地がつくられる。(沖縄、三沢、横須賀、岩国など)
1960 日米安全保障条約の改正 ・アメリカ軍と自衛隊が協力して、日本の周辺を守る(=共同防衛義務)。
・国民は大反対するが、岸内閣は国民の反対を押し切って強行採決する。(=安保闘争
1960 日米地位協定 ・日米安全保障条約の改正とともに結ばれる。
・在日米軍の日本国内における扱いなどについて取り決められる。
・米軍基地内に日本の法律は適用されない。
・米軍人が犯罪を起こしても、起訴されるまでは日本の警察は逮捕できない。

 1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれることにより、アメリカによる日本の占領が終わり、日本は晴れて独立国となりました。しかし、アメリカにとって、日本という国は周辺に存在するソ連、中国、北朝鮮といった社会主義国ににらみをきかせ、アジア周辺に出撃するのに大変便利な基地でした。現にベトナム戦争やイラク戦争のときにも、アメリカ軍は日本の基地から出撃していきました。その結果、サンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保障条約が結ばれ、占領政策が終わったあとも、アメリカ軍が日本にとどまることになりました。とりあえず、アメリカ軍が日本に駐留する理由は、日本周辺のアジアの安全と平和を守るため、ということでした。まあ、アメリカ軍は世界の平和を守る正義の味方ということなのでしょうか。

 さらに、1960年、この日米安全保障条約がパワーアップします。当初の日米安全保障条約は「アメリカ軍が日本におじゃまするけど、日本は何もしなくていいよ。」という内容のものでしたが、1960年の改正により「アメリカ軍の在日米軍基地での活動を日本も支援する」ことが盛り込まれました。特に自衛隊による協力です。これには国民の多くが、アメリカの戦争に日本が巻き込まれる危険性を心配し、大反対しました。特に大学生を中心とした学生の運動は活発化し、この改正が国会で議決されるときには、約8000人の学生が国会になだれこみ、東大生の女の子が死亡するという事件まで起きました。この時の日米安全保障条約改正をめぐる一連の事件のことを安保闘争といいます。

 さらに、この日米安全保障条約の改正と同時に日米地位協定と呼ばれる文書も作られました。これは、日本における在日米軍のルールをまとめたものです。そして、この日米地位協定の中で特に問題となっているのが、「在日米軍基地内には日本の法律は適用されない」と「在日米軍が犯罪を起こしても、起訴されるまでは日本の警察は逮捕できない」という規定。これのため、1995年には沖縄で12歳の女の子が3人のアメリカ兵に暴行されると言う事件がありましたが、基地に逃げ込んだアメリカ兵に対して、日本はしばらく何もすることができませんでした。

 この事件からも分かる通り、在日米軍の問題に一番苦しんでいるのは沖縄の人たちです。なぜなら在日米軍基地の総面積の約70%が沖縄に集中しており、在日米軍の約半数に当たる26,883人が沖縄に配置されているからです。それにより沖縄の人たちは米軍の戦闘機やヘリの墜落事故、米軍による犯罪に苦しめられているほか、土地の大部分を米軍基地として使用されている関係で、産業を興すこともできず、失業率も日本で一番高い状態です。しかもはるか遠くの東京にある日本政府は、あまりこの問題を真剣に考えてくれない。沖縄以外の日本人も同じです。

3.自衛隊、在日米軍をめぐる裁判
 自衛隊、在日米軍をめぐる問題点について解説してきましたが、このような問題が裁判で争われたこともありました。前回の授業で説明したように、日本の裁判所は全ての法律が憲法に違反しないかどうかチェックする違憲立法審査権を持っています。その結果、裁判所が自衛隊や在日米軍が憲法に違反しないか審査したことがありました。以下がその裁判です。

種類 事件 内容 判決
日米安全保障条約
(在日米軍)
(1957年)
砂川事件 東京都砂川町の米軍基地の拡大工事に反対する人たちが、柵を破って敷地内に入ってしまう。 第一審:伊達裁判官が、在日米軍は憲法違反であるという違憲判決を出した。(跳躍上告により第二審はなし)
第三審:統治行為論により、憲法判断は避ける。住民側有罪。
自衛隊
(1967年)
恵庭事件 北海道恵庭町の酪農家が、自衛隊の射撃訓練の騒音のせいで、牛の乳の出が悪くなったことに腹をたて、自衛隊の敷地内の通信線を切断する。 第一審:酪農家は無罪。違憲か合憲かの憲法判断はなし。
自衛隊
(1982年)
長沼ナイキ基地訴訟 北海道長沼町の森林を伐採してナイキミサイル基地が建設されることに、住民が反対する。 第一審:福島裁判官は、上司の平賀裁判官から違憲判決を出さないようにアドバイスを受けていた(平賀書簡問題)にもかかわらず、自衛隊は憲法違反であるという違憲判決 を出した。
第二,三審:統治行為論により、憲法判断は避ける。住民側敗訴。
自衛隊
(1989年)
百里基地訴訟 茨城県の自衛隊基地建設をめぐり、国と建設反対側住民が対立。 第一,二,三審:統治行為論により、憲法判断は避ける。住民側敗訴。

 この中で特に注目は長沼ナイキ基地訴訟です。日本では裁判は3回までやり直すことができ、3回目の最高裁判所での判決が最終判決となるのですが、長沼ナイキ基地訴訟の第一審(1回目の裁判)では、何と地方裁判所が「自衛隊は憲法に違反する」という違憲判決を出しました。しかもこのとき裁判を担当した福島裁判官は上司の裁判官である平賀裁判官から「日本政府が怖いから違憲判決なんか出すなよ!」という内容の手紙までもらっていたにも関わらず、違憲判決を出しました。

 しかし、これが第二審(2回目の裁判)に持っていかれてから状況が変わります。高等裁判所は第一審の違憲判決を退け、統治行為論という考え方を持ち出しました。統治行為論とはなかなか難しい言葉ですが、わかりやすく言うと「そんな難しい問題は国会や内閣に任せるべきであり、裁判所が口を出すべきではない。」とする考えのことです。つまり、裁判所は国会や内閣から批判されるのを恐れて、自衛隊が憲法違反かどうか判断するどころか、逃げ出してしまったわけです。そんなんでいいのか裁判所!

 そしてさらに、この統治行為論がその後の自衛隊における裁判のお手本になってしまいました。と言うわけで長沼ナイキ基地訴訟の第三審(最高裁判所)やその後の百里基地訴訟もこの統治行為論により、裁判所は違憲判決を逃げています。

 そして、日米安全保障条約(在日米軍)の違憲について争われたのが砂川事件です。このときにも長沼ナイキ基地訴訟と同じく、第一審でなんと伊達裁判官が「在日米軍は憲法に違反する」という違憲判決を出してしまいます。しかし、最高裁判所の判決では、在日米軍に関しては合憲判決が出たものの、日米安全保障条約についてはここでも統治行為論により最終的に憲法判断は避けられました。

 おさらいすると長沼ナイキ基地訴訟の第一審(地方裁判所)と砂川事件の第一審では自衛隊や日米安全保障条約が憲法違反であるという判決が出ましたが、第三審(最高裁判所)では、いずれも統治行為論により違憲判決は出されなかったということ。つまり、最高裁判所が自衛隊、日米安全保障条約について違憲判決を出したことは一度もないと言うことです。便利よね、統治行為論。

4.自衛隊の海外派遣
 ここでは1990年以降の、激動の日本の安全保障政策を解説します。

年号 事件 内容
1991 自衛隊の
ペルシア湾派遣
1991年の湾岸戦争において、日本は「金は出すが人(自衛隊)は出さない」と文句を言われたので、おわびに湾岸戦争が終わったペルシア湾に海上機雷を除去するために自衛隊の掃海艇を派遣。
1992 PKO協力法 ・自衛隊が国連のPKO(国連平和維持活動)に参加するためなら、海外に派遣できるようになる。
・あくまで平和の維持のために行くのであって戦いに行くのではない。
・この年にさっそくカンボジアのPKOに参加。
2001 テロ対策特別措置法 アメリカ同時多発テロ事件をきっかけにして、アフガニスタンに派兵された米英軍の後方支援のため、自衛隊の給油艦をインド洋に派遣する。
2003 イラク復興支援特別措置法 イラク戦争で混乱したイラク国民の復興を支援するため、非戦闘地域に限定して、自衛隊を海外に派遣する。
2009 海賊対処法 ・無政府国家となったソマリア沿岸のアデン湾を航行する日本の船を、海賊から護衛することを目的として、自衛隊の護衛艦がソマリアの隣国ジブチに駐留することになる。
⇒その後の法律改正により、他国の船も護衛することが可能に。
2014 集団的自衛権の解禁 これまで、集団的自衛権(=同盟国を助けるために戦う権利)を、日本は憲法9条を理由として、保持しないという方針を通してきたが、安倍首相は、日本は集団的自衛権を保持しているという方針を閣議決定。


●自衛隊のペルシア湾派遣
 まずは自衛隊の海外派遣の歴史についてまとめます。専守防衛の方針から、結成後、一切海外に派遣されることのなかった自衛隊が、海外に派遣されることになるきっかけとなったのが1991年の湾岸戦争でした。湾岸戦争ではクウェートに侵攻したフセイン大統領のイラク軍と戦うために、アメリカを中心とする多国籍軍が結成され、日本もアメリカから協力を要請されます。平和主義をかかげる日本は、悩んだあげく、自衛隊を湾岸戦争には派遣せず、1兆7000億円の資金援助だけ行いました。これにより日本もクウェートやアメリカ軍に対して相当の支援をしたつもりでした。

 湾岸戦争終了後、イラクの侵略を食い止めることができたクウェートは支援国に対しての感謝の気持ちを込めてアメリカのニューヨークタイムズなどの新聞に広告を載せました。そこにはクウェートがお世話になったアメリカをはじめとした国々の30か国の名前が書かれていたのですが、その中に1兆7000億円もの超大金を支援した日本の名前が入っていませんでした。その結果、日本は世界から「お金だけで何もかも済ませようとするひきょうな国!」というレッテルを貼られてしまったと感じ、悲しい思いをしてしまいます。

 そこで、湾岸戦争終了後、戦争が終わったあとならいいだろうということで、湾岸戦争終了後のペルシア湾の海上機雷(海に浮かぶ爆弾)の掃除のために、自衛隊の掃海艇を、私のふるさとの呉から派遣します。これが自衛隊の初の海外派遣でした。

●PKO協力法
 そして、1992年にはPKO協力法が制定され、国連が行っているPKO(国連平和維持活動)に自衛隊が派遣されることが決まりました。PKOとは、戦争や内乱がある程度沈静化した地域に部隊を派遣し、警察活動を行うなどして、その地域で二度と戦争が起こらないように監視する活動のことです。つまりPKOは戦いに行くわけではなく、あくまで平和の維持のために行くのだから、自衛隊を派遣してもOKということになったわけです。そして早速この年に自衛隊が、初のPKOとしてカンボジアに派遣され、その後も世界中の紛争地で大きな役割を果たしました。では自衛隊がPKOに参加により派遣された国や地域をまとめます。

1992年 カンボジア(東南アジア)   2007年 ネパール(南アジア)
1993年 モザンビーク(アフリカ)   2008年 スーダン(アフリカ)
1996年 ゴラン高原(イスラエル、シリア国境)   2010年 ハイチ(中央アメリカ)
2002年 東ティモール(東南アジア)   2011年 南スーダン(アフリカ)

 

●テロ対策特別措置法
 自衛隊が海外に派遣されるようになったとはいってもこの時点では、PKOや難民の保護、災害後の支援などに限られていました。つまり、自衛隊が戦争にかかわることは避けられてきたわけですが、そんな自衛隊の海外活動に2001年、大きな変化が訪れます。アメリカ同時多発テロ事件です。イスラム教過激派組織アルカイーダのリーダーオサマ・ビンラディンが計画した大規模なテロにより、アメリカ人を中心とした3025人の人たちが犠牲となりましたが、その報復行為としてアメリカがオサマ・ビンラディンをかくまうアフガニスタンに攻め込むことになりました。

 これにより日本でもテロ対策特別措置法が制定され、テロと戦うためなら自衛隊を海外に派遣してもOKということになり、日本の自衛隊が、直接、戦場には派遣されなかったものの、アフガニスタンから少し離れたインド洋で武器・弾薬などの補給を手伝うという形で海外に派遣されます。つまりこの時の自衛隊派遣は自衛隊が戦争に関わったものの、あくまでアメリカ軍の後方支援であり自衛隊が直接に戦闘に加わったわけではありません

●イラク復興支援特別措置法
 そして2003年にはイラク戦争をきっかけにしてイラク復興支援特別措置法が制定され、イラクの復興支援のためではあるのですが、完全な終戦状態ではないイラクのサマワという都市に自衛隊が派遣されます。

●海賊対処法
 さらに2009年に海賊対処法が制定され、海賊から民間船を守ることを目的として、アフリカのソマリア沿岸(アデン湾)に自衛隊が派遣されました。当初は日本の船だけを守るという条件でしたが、他国の船を守ることも任務に加えられ、現在はソマリアの隣国であるジブチに自衛隊の支部が設置されています。

 このように、ペルシア湾派遣をきっかけにして、自衛隊の海外派遣は少しずつ拡大されていったわけですが、運よく今までに、自衛隊員の皆さんは誰1人として戦闘により死亡していないし、誰も殺していません。このような軍隊(のような部隊)は世界になかなかありません。しかし、この状況が大きく変わってしまうのではないかと多くの人たちが心配しています。それが2014年の集団的自衛権を認める閣議決定と2015年の安保関連法の制定です。これについてはまた後で詳しく説明しましょう。

5.日本の安全保障の歴史

年号 事件 内容
1996 日米安保共同宣言 冷戦の終結に伴い、日米安全保障条約の位置付けを「対ソ連」から「アジア・太平洋地域の安定(対北朝鮮・中国)」に変更。
1997 新ガイドライン 日米安保共同宣言を受け、日米の防衛協力方針も変更し、日本周辺で戦争が起こった場合、日本がアメリカの後方支援を行うことが明記。
1998 テポドン事件 北朝鮮の実験ミサイル「テポドン」が日本上空を通過し太平洋に落下。
1999 周辺事態法 日本周辺で戦争が起こった時の日本政府の対応について取り決める。
2003 武力攻撃事態法 他国から日本への直接攻撃があった場合、自衛隊を戦闘可能にし、民間人もこれに協力することが義務付けられる。
2004 国民保護法 日本国内が戦争状態の際は、自衛隊が国民の生命、財産を守り、被害を最小限に食い止めることを約束。
2006 北朝鮮が初の核実験 日本周辺の緊張が高まり、再軍備化の意見が強くなる。
2006 防衛庁が防衛省に格上げ 自衛隊の管理・運営に当たる防衛大臣の権限がパワーアップ。
2010 尖閣諸島漁船衝突事件 中国漁船が尖閣諸島の日本の領海内に侵入し、海上保安庁の巡視船に衝突し、破損させたにもかかわらず、中国人船長は中国との関係悪化を心配した日本政府により釈放される。
2013 国家安全保障会議
(日本版NSC)
首相、官房長官、外務大臣、防衛大臣の4大臣会議を基本として、日本の防衛問題に素早く対応するための機関を設置。
2014 武器輸出三原則を廃止 日本の武器の海外輸出を規制してきた武器輸出三原則が廃止され、防衛装備移転三原則に変わることにより、日本の兵器を海外に輸出しやすくなる。
2014 特定秘密保護法 自衛隊や安全保障問題など、特定秘密に指定された情報は国民に公開されず、漏らした場合は罰則が加えられる。
2015 ガイドライン改定 集団的自衛権解禁を受け、自衛隊がアメリカ軍を支援する条件が、「日本周辺」から、「地球全体のアメリカ軍の軍事行動」に改められる。
2015 安保関連法成立 集団的自衛権解禁を受け、自衛隊の海外活動、同盟国との軍事協力を大幅に認めるため、10の法律の改正と国際平和支援法が成立。

 1991年のソ連崩壊まで日本の防衛政策は、日米安全保障条約を基本として、ソ連の脅威と闘うアメリカ軍とどのように連携するかに重点が置かれていました。しかし、そのソ連がなくなってしまったことをうけ、1996年に日米両首脳により日米安保共同宣言が発表され、日米安全保障条約の位置付けが「極東アジアの安全」から「太平洋アジア周辺の安全」へと変更されました。

 とってもわかりにくいのですが、これは日米安全保障条約における仮想敵国が「対ソ連」から「対北朝鮮」に変更されたことを意味します。その結果、翌年には新ガイドラインが日米間で結ばれ、もし韓国と北朝鮮による第二次朝鮮戦争が起きたときに、日本がどのような方法でアメリカ軍を支援するかが具体的に決められました。そしてこの支援には民間人の支援も規定されます。つまり、第二次朝鮮戦争が起きたら、日本の民間の航空や港もアメリカ軍に貸してあげないといけないし、日本の病院ではアメリカ軍に治療もしてあげなければなりません。

 すると1998年には北朝鮮の実験発射ミサイルテポドンが日本(青森県)上空を通過し太平洋に落下するというテポドン事件(北朝鮮は人工衛星の打ち上げ実験と主張)が起き、日本に衝撃が走ります。このような危機感の中で、翌年の1999年にまず周辺事態法が制定されました。これにより日本周辺で戦争(主に北朝鮮との戦争を想定)が起きた場合に日本政府がどのように対応するかが取り決められます。さらに2003年には武力攻撃事態法が制定され、もし北朝鮮が日本に攻め込んできた時を想定して、自衛隊を戦闘可能にし、民間人がどのように協力(自衛隊・アメリカ軍の治療、軍事物資の運搬、軍事施設の建設など)するかがさらに具体的に定められました。ただ、これらの法律が立て続けに制定され、国民自身が戦争に巻き込まれることを不安に思うことを防ぐために2004年に国民保護法が制定され、日本人国内が戦争状態の際は、自衛隊が国民の生命、財産を守り被害を最小限に食い止めることを約束します。

 このようにして日本政府は北朝鮮の脅威に備えていったわけですが、2006年に北朝鮮が最初の核実験を実施し、日本人の多くが、ますます北朝鮮のことを警戒するようになりました。さらに2010年には、沖縄県の尖閣諸島の領海に中国人漁船が侵入し、日本の海上保安庁の船に体当たりしたにもかかわらず、日本政府はそのビデオを非公開にしようとするかつ、漁船の中国人船長を釈放するという事件があり、日本のそのような弱腰外交を改め、中国からの脅威に備えるためにも、日本の安全保障を強化するべきであるとする意見が強まってきました

●国家安全保障会議(日本版NSC)
 そのような空気の中、2012年に第2次安倍内閣が発足してからは、海外からの脅威に備えるため、急激に安全保障法制を進めていきました。まず2013年にはアメリカのNSCを見本とした国家安全保障会議(日本版NSC)が設置されます。これは首相、官房長官、外務大臣、防衛大臣の4人を中心とした会議で、緊急時にはこの4人による協議により日本の防衛問題の重要決定(戦争への参加の決定)を迅速に行うことができるようにしたものです。

●武器輸出三原則の廃止
 2014年には、それまで日本の兵器を海外に輸出できない根拠となっていた武器輸出三原則が廃止され、その代わりに防衛装備移転三原則が作られました。これにより日本企業が自衛隊のみに販売していた日本産の兵器を外国の軍隊に売ることが可能になります。

 さらに、特定秘密保護法が制定され、政府が特定秘密に指定した情報は国民に非公開となり、公開した公務員やマスコミは処罰されるようになります。これにより2015年も382件の情報が特定秘密に指定されました。いったいどんな情報が秘密扱いになったのは、もちろん私も知りません。

 そして、2014年に安倍内閣が日本も集団的自衛権を保有するという閣議決定を行い、この決定に基づいて、2015年には安保関連法が成立しました。では、この流れを詳しく解説しましょう。

●くそ分かりにくい安保関連法をできるだけわかりやすく解説
 国連の国連憲章はすべての加盟国に個別的自衛権集団的自衛権を認めています。

個別的自衛権=自分の国が攻撃されたら、自分の国を守るために戦う権利
集団的自衛権=同盟国が攻撃されたら、同盟国を守るために戦う権利

 しかし、これまでの日本政府は、憲法9条で戦争を放棄している理由から、自衛隊本来の存在理由である個別的自衛権は持つけれども、集団的自衛権は持たないという解釈をしてきました。それを安倍内閣は2014年の閣議決定により、集団的自衛権も持つという方針に解釈を変更しました。つまり、

今まで…同盟国を助けて戦うことは、同盟国の戦争に参加することになるので、集団的自衛権禁止!
  閣議決定(2014)
これから…同盟国を助けることにより、日本を守ることにつながることもあるから、集団的自衛権OK!

という理屈です。例えば、朝鮮戦争が再発した時、韓国に住む日本人をアメリカ軍が軍艦で日本に輸送することがあるかもしれない。そんな時、集団的自衛権を使って、自衛隊がアメリカの軍艦を護衛しながら、北朝鮮と戦うことは、日本にとっても必要なことだ、というのが国会のおける政府の説明でした。しかし、そもそもアメリカの軍艦に日本の民間人を乗せること自体ありえないことらしいのですが…。

 国民の多くが、反対したり、よくわかっていない中、2015年に安保関連法が成立しました。安保関連法とは、集団的自衛権を行使できるようにするために成立した1つの法律と、改正された10の法律の総称です。あまりにたくさんのルールを一気に変えすぎて、私自身も最初は訳が分からなかったのですが、できる限りわかりやすく解説すると、こういうことになります。

新法 国際平和支援法 国連決議で、戦争を起こした悪い国に制裁を加えることになった場合、日本も後方支援で制裁に加わることができるようになる。
・アフガニスタン戦争の時はテロ対策特別措置法(2001~2007)、イラク戦争の時はイラク復興支援特別措置法(2003~2009)など、その度に期限付きの特別措置法を制定して対応してきたが、これにより特別措置法を作る必要がなくなる。
改正
(名称変更)
PKO協力法(旧)

国際平和協力法
・自衛隊がPKO以外の平和協力活動にも参加可能になる。
・自衛隊の武器使用基準を緩和し、自分たちを守るだけでなく、仲間の他国軍や民間人を助けるために武器を使う駆けつけ警護が可能になる。
改正
(名称変更)
周辺事態法(旧)

重要影響事態法
今までは日本周辺で戦争が起きた場合のみの、アメリカ軍への後方支援を想定していたが、後方支援が可能な地理的制限が撤廃(世界中どこでもOK!)される。
・後方支援の内容に、弾薬の提供、他国軍機への給油なども追加。
改正
(名称変更)
米軍行動円滑化法(旧)

米軍等行動円滑化法
自衛隊が、アメリカ軍以外の軍隊(現在はオーストラリア軍などを想定)も支援できるようになる。
改正 武力攻撃事態法 このまま放置すると日本に深刻な危機をもたらすと予想される存立危機事態と判断された事態が起きた場合、同盟国の先制攻撃を自衛隊が後方支援することができる。
改正 自衛隊法
船舶検査法
海上輸送規制法
捕虜取扱い法
国家安全保障会議設置法
以上の目的を達成するため、自衛隊や日本政府が行動しやすくするための法律たち。

 たくさんありすぎて、全てを理解するのはなかなか難しいのですが、要するに、これらの法改正により、自衛隊が武器を使い、日本が戦争に巻き込まれる可能性は明らかに高くはなっています

 この中でも一番気になるのが、武力攻撃事態法です。先制攻撃を可能にするのであれば、それはもう自衛の範囲を超えているような気もします。しかし、あくまで後方支援に限られるというのなら、そこまで危険でないような気もします。

 それよりも国会では、野党が、安保関連法により日本が戦争に巻き込まれる可能性が高くなる、危険だと主張するのに対し、安倍内閣は、日本が戦争に巻き込まれることはない、安全だといった議論が中心でした。しかし結局、これらの法律が制定された結果、本当はどうなるのか、未来にどんな戦争が起こるのかは、相手(敵)あってのことですし、誰にも真相はわかりません。さらに、安倍内閣は安保法制の危険性をごまかすような答弁が多く、野党も安倍内閣の悪口を言うばかりで野党の理念が見えず、本質的な議論にならなかったことも、我々にとって問題をわかりにくくしてしまいました。結局、安倍内閣はどんな手段を使ってでも自分たちの法律を通したいだけ野党は次の選挙を意識して国民の人気をとりたいだけ、そんな国会のやり取りを見ることによって、国民の心がますます政治から遠のいてしまう、そんなむなしい日本の民主主義を見せられた気がしました。

5.平和のための取り組み
 では最後に、日本政府が平和のために行っている取り組みをいくつか紹介しておきます。

●非核三原則
 まずは非核三原則。日本は核兵器を「つくらず、もたず、もちこませず」という原則を採用しています。これは1972年に当時の総理大臣佐藤栄作首相が考えた言葉で、国会でもこの原則が決議されました。さらに佐藤栄作首相は非核三原則を考え出したことが評価されてノーベル平和賞も受賞しました。しかし、実際には、佐藤栄作首相はアメリカと密約を結んで、アメリカ軍が日本の米軍基地に核兵器をもちこむことを密かに許可し、実際にアメリカ軍が核兵器をもちこんだ経歴があることがわかりました。佐藤栄作首相は日本人で唯一ノーベル平和賞を受賞した人物なんですが、こんな話を聞くと、何とも複雑な気持ちです…。ノーベル平和賞、返したほうがいいのでしょうか?

●シビリアン・コントロール(文民統制)
 さらに日本の政治はシビリアン・コントロール(文民統制)を採用しています。これは戦前、軍隊が政府の意見を無視して暴走し、満州事変を起こし、日本は第二次世界大戦という悲劇に突き進んだという悲しい歴史を反省し、自衛隊の指揮監督権は軍人ではなく、文民(国会、内閣)に持たせようという原則です。というわけで日本では自衛隊の最高指揮権は内閣総理大臣が持っているし、さらに自衛隊の出動には国会の承認が必要なことになっています。

●防衛費GNPの1%枠
 そして、日本は1976年の三木内閣のときに防衛費をGNPの1%以内にするということも決めました。GNPという言葉は詳しくは経済分野で説明しますが、簡単に言うと、自衛隊に関する予算費用は1年間に全ての日本人が稼いだお金の1%以内しか使わないということです。つまりこれは、自衛隊にお金を使いすぎて軍事大国になるのを防ぐための原則だったのですが、1987年の中曽根内閣のときに撤廃されました。その後1%を越えた年も何度か出しながらも、現在までだいたい1%前後で納まってきましたが、アメリカからの要求を受け、日本政府は防衛費の大幅増額も考えているようです。

●思いやり予算
 以前は、アメリカ軍の在日駐留費は、全額アメリカ軍が負担していましたが、1978年よりアメリカ軍の駐留費の一部を日本も支出することになりました。これが思いやり予算です。2015年も思いやり予算として約1900億円が支出されました。これについては、アメリカ軍の費用を日本政府が払うのはおかしいという意見と、日本を守ってもらっているのだから費用を払うのは当然であるという意見があります。

●事前協議制
 最後に、1960年の日米安全保障条約の改正のとき、アメリカとの間で事前協議制というルールが採用されました。これは、アメリカが在日米軍・在日米軍基地において軍事的な変更・作戦を行うときには、事前に日本政府に相談しますよ。という約束のことです。つまり、在日米軍基地は基本的には日本の土地だから、勝手なことしませんよ。危ないことするときは相談しますよ。ということです。しかし、この事前協議制、今までに一度も使われたことありません。なのに、湾岸戦争、同時多発テロ事件後のアフガニスタン攻略、イラク戦争の時には、在日米軍基地が重要な役割を担って使われまくっいます…。日本はアメリカにナメられているのかな…と思います。

 2022年12月29日修正