19時間目:日本経済史

1.実質経済成長率のグラフ
 今日は日本史の授業です。いままで色々な経済理論について勉強してきましたが、今日はそんな知識を使って、戦後の日本経済がどのような歴史をたどってきたのか解説します。今までに習った言葉もたくさん出てきます。難しそうな言葉でも、自然に意味を理解しながら読めるか、力試しです。

 今回の授業では下に示した経済成長率のグラフが重要です。このグラフを見て、どの時期が日本は景気が良かったのか、悪かったのかをざっと把握しましょう。今からこのグラフに書かれている出来事について説明していきます。それらの出来事が日本経済にどのような影響を与えたかを考えながら、日本経済の歴史を理解し、これからの日本経済についても考えましょう。

2.戦後復興期

1946 GHQの
三大経済民主改革
農地改革…自作農創設特別措置法を制定し、寄生地主から国が農地を買い取り、自作農家に安く売り渡すことにより自作農家を増やす。
財閥解体…独占禁止法や過度経済力集中排除法を制定することにより、持ち株会社を禁止し、財閥の設立を禁止する。
労働組合の育成…労働三法(労働基準法、労働組合法、労働関係調整法)を制定し、労働者の権利を保障する。
1947 傾斜生産方式 ・石炭、鉄鋼、肥料、電力産業を徹底的に育成し、これらの産業を中心に経済を復興させようとする。
・これらの産業に対して復興金融金庫が安く資金を貸し出したが、その資金を調達するため、日本銀行に復興金融債を引き受けさせたため、激しいインフレ(=ハイパーインフレ)を引き起こす。
1949 ドッジライン ・傾斜生産方式により発生したインフレを抑制するための政策
⇒均衡予算の実施、補助金の削減、復興金融公庫の業務停止
1ドル=360円の円安為替レートの設定により、輸出を伸ばす。
1950 特需景気 ・アメリカ軍が朝鮮戦争に必要な物資(特需)を日本で調達し、日本の景気が回復


 1945年8月15日、日本の敗戦により第二次世界大戦は終結しました。日本が受けた被害は大きく、200万人以上の日本人が戦死し、国富の4分の1が消失しました。そんなボロボロの状態の日本経済がGHQ(主にアメリカ軍)主導のもと、立て直されていきます。GHQは三大経済民主改革と呼ばれる改革を実行しました。

●GHQの三大経済民主改革(1946年)
農地改革…地主の農地を国が買い上げ、小作農家に安く売り渡すことにより、自作農家を増やし、農家の生活を安定させる。
財閥解体…独占禁止法を成立させ、財閥を解体し、企業間競争力を高める。
労働組合の育成…労働組合の活動を活発にさせることにより、労働者の賃金水準、労働環境を改善させる。

 それまでの日本の農家は、地主と呼ばれる金持ち農家が広大な農地を所有し、小作農家に安い小作料を払って農作物を作らせるという方法をとっていたため、地主がすごく金持ちであった代わりに、自分たちの農地を持たず地主にこき使われていた小作農家はひどい貧乏でした。そこでGHQはそんな地主が所有していた農地を、ほぼ取り上げるような状態で買い取り、それらを安く小作農家に分け与えました。その結果多くの小作農家が自分の農地を所有する自作農家となり、農家の収入も安定しました。

 また、戦前の日本は四大財閥(三井、三菱、住友、安田)を中心とする大企業グループが大きな力を持ち、財閥は日本政府に働きかけ、アジア諸国を植民地として自分たちの商品を売るために、第二次世界大戦を起こさせました。また、巨大な大企業が売り上げを独占することは、新しい企業が育つ障害にもなっていたので、GHQは財閥を中心とする大企業を分割してバラバラにしてしまいます。一番大きい三井財閥は約170の企業に分割されました。

 戦前の日本は、治安維持法などにより、労働組合を作ることが禁止され、そのため労働者もきびしい労働条件の下、安い賃金でこき使われていたため、労働者の生活水準もひどいものでした。そこでGHQは治安維持法を廃止し、労働組合運動を活発化することによって、労働者の権利を保障し、労働者の生活も向上させようとしました。

 これら3つの政策の共通点は、GHQは「日本が第二次世界大戦を引き起こしたのは、日本国民が基本的に貧しく、商品をあまり買えないので、商品の売り上げを伸ばしたい大企業が海外に商品を売りつけようと考えたからであり、日本国民の生活を安定させれば、国内に十分商品を売ることができるようになるため、外国を侵略してまで商品を売りつけるようにはならないだろう」と考えてのことでした。そのためにも①農地改革⇒農民の生活の向上、②財閥解体⇒中小企業の育成、③労働組合の育成⇒労働者の生活の向上という風に、それまで貧しかった人たちの生活を安定させるという性格を持ちます。

●傾斜生産方式(1947年)
 GHQがそのような改革を推し進める中、日本政府も経済復興政策に乗り出します。それが傾斜生産方式です。当時の日本政府は戦争に負けた直後で、たくさんの産業を支援するほどのお金がなかったため、産業の中心となるいくつかの産業を集中的に育成し、その他の産業にその効果を広げ、経済全体を活性化させようと考えました。

 例えば、工業において、多くの企業に欠かせないのが「エネルギー」と「鉄」でした。そこで、政府は当時の主要エネルギーであった石炭産業と、鉄鋼産業を集中的に支援し、大量の石炭と鉄を生産させ、大量に作られた石炭と鉄を使って工業生産量を増やし、経済全体を復興させようとします。これが傾斜生産方式です。まさに「石炭」と「鉄」をひいき(傾斜)した生産方式でした。当初ひいきされていたのは「石炭」と「鉄鋼」だけでしたが、その後は「電気」産業と、農業育成のための「肥料」産業もその対象に選ばれました。

 しかし、この傾斜生産方式には問題がありました。これらの産業を支援するため、日本政府は復興金融金庫と呼ばれる臨時の政府系金融機関(銀行)を設置し、傾斜生産方式に指定された特定の産業に優先的に安い利子でお金を貸し出すことにました。しかし、戦争に負けた直後の日本政府にはそんなにたくさんの貸し出すお金はありません。そこで、日本政府は復興金融金庫に復興金融債を発行することを特別に認め、復興金融債を日本銀行に買わせることによって、貸出資金を調達させました。わかりやすくいうと、日本銀行がお札を印刷しまくることにより、復興金融金庫が貸し出すお金を作ったのです。

 さて、このように日本銀行がお金を発行しまくって、世の中にお金が出回りすぎたらどうなるでしょうか? そうです。お金の価値が下がってインフレーションが発生します。というわけで、この時にはなんと5年で物価が200倍になるほどのハイパーインフレ(超インフレ)が発生しました。200倍ですよ! どう思います? 今で言えば、100円の板チョコが5年後に2万円になっているという状態です。というわけで、この傾斜生産方式は、お金の調達方法を間違ってしまったため、日本経済をかえって不安定にしてしまいました。

●ドッジ・ライン(1949年)
 そんな日本がインフレに苦しんでいた1949年、一人のアメリカ人が日本にやってきました。デトロイト銀行の頭取(社長)ジョセフ・ドッジです。

 GHQは日本の急激なインフレを抑制するため、経済専門家として彼を呼び寄せました。ドッジはこのしゃれにならないインフレを抑制するためにドッジ・ラインと呼ばれる政策を実施します。まず、世の中に出回るお金を減らすため、増税により国民から税金を大量に奪い取ります。さらに予算も削減し、政府の支出も減らすことにより、とにかく国民にお金が出回らないようにすることによってインフレを抑制させようとしました。しかし、たくさん税金を奪い取り、国民のために使う支出を減らすというのは、戦後の貧困から立ち直っていない日本国民にとって鬼のような政策でした。当然のように日本は不景気になってしまいます。

 ただ、ドッジも鬼ではありません。彼は、ある程度の不景気が日本にやってくることを予想し、日本人が外国に商品を売ってもうけることのできる政策を平行して実施します。これが、1ドル=360円という円安為替レートの設定による輸出振興政策でした。

 この為替レートについては23時間目:世界貿易体制のところで詳しく説明するので、基本だけ説明しておきます。現在の円とドルの交換比率を1ドル=120円(当時よりは円高)としましょう。すると、日本国内で360万円で売っている日本車をアメリカ人は3万ドルで買うことができます。しかし、当時は1ドル=360円(現在よりは円安)ですので、同じ360万円で売っている日本車をたった1万ドルで買うことができた計算になります。このように1ドル=360円という円安為替レートにより、外国人は日本製品を安くすることができたため、日本は外国に商品を売ることによって、もうけることができるようになりました。この効果が絶大だったのが、のちに説明する高度経済成長の時です。

●特需景気(1950年)
 しかし、1950年の朝鮮戦争をきっかけに、日本は不景気から脱出することができました。日本のすぐ近くの朝鮮半島で韓国と北朝鮮が戦争を始めます。そして、韓国を助けるため、日本に駐留していたアメリカ軍が日本を基地として利用して朝鮮戦争に出兵していきます。その結果、彼らは戦争に必要な物資を日本で調達します。兵器修理のための鉄、軍服やテントなどの布、食料などです。その結果、日本製品が飛ぶように売れ、日本は好景気を迎え、経済状況も戦前の状態まで回復します。この好景気はアメリカ軍からの軍事物資という特別な需要(特需)によりもたらされた好景気ということで特需景気と呼ばれています。ただ、考えようによっては、日本は朝鮮半島で韓国と北朝鮮がお互い殺しあったことにより、景気を回復させたわけです。そう考えると複雑な気持ちです。

3.高度経済成長
 特需景気のおかげで日本経済が一気に戦前の状態に戻っただけでもすごいのですが、さらにすごいのは、日本経済の成長はその後も止まらず、その後、日本は世界のどの国も経験をしたことがないほどの急激な経済成長を果たします。これが高度経済成長です。このころの流れをざっとまとめます。

●好景気のネーミング
 神武景気の「神武」とは日本の初代天皇のことで、日本神話によると紀元前660年に即位したと伝えられています。つまり、「この好景気は初代の天皇が即位して以来のめでたい出来事である」と言う意味を込めて神武景気と名付けられました。
 岩戸景気の「岩戸」とは同じく日本神話に出てくる天岩戸のことです。これは神武天皇が即位するよりもさらに昔、日本の守り神である天照大神(太陽神)が、いじけてしまって天岩戸という洞窟に閉じこもってしまったことがありました。その結果、太陽のいなくなった日本は暗黒の世の中になってしまいます。そんなとき、ほかの神様たちが天岩戸の前でお祭りをし、気になった天照大神がつい洞窟から身を乗り出した瞬間、力持ちの神様が天照大神を見事洞窟から連れ出すことに成功しました。その結果、日本にも太陽が復活したわけです。で、「この好景気は天照大神が天岩戸から出てきて以来のめでたい出来事である」と言う意味を込めて岩戸景気と名付けられました。
 オリンピック景気は、東京オリンピックをきっかけにした好景気なのでオリンピック景気です。まさにそのまんまです。
 最後にいざなぎ景気は、天岩戸の話よりもさらに昔、天照大神の父親にもあたる神様「イザナギのみこと」が、日本列島とそこにある大自然、そして天照大神などの神様を作り出しました。つまり「この好景気はイザナギのみことが日本を作って以来のめでたい出来事である」と言う意味を込めていざなぎ景気と名付けられました。というわけで、これらの好景気のほとんどが、日本神話を題材に名前を付けられています。

神武景気(1954~1957年)
 毎年、内閣府(当時は経済企画庁)が経済財政白書(当時は経済白書)という1年間の日本経済の状況をまとめた報告書を作っているのですが、高度経済成長が始まったばかりの1956年の経済白書では、既に日本経済が、戦後の貧しかった状況を完全に脱出して、生活水準もアップしたことから「もはや戦後ではない」と言う言葉が使われました。

●岩戸景気(1958~1961年)
 そう考えると、この時点で日本経済は十分成長していたと言えます。なのに、1960年、内閣総理大臣に就任した自民党の池田勇人首相は「10年間で日本のGNPを2倍にしてみせる!」と言う計画である国民所得倍増計画を発表しました。言い換えると、日本人の給料が10年間で2倍になるということです。この計画に対しては、野党から「できっこない」などと批判されましたが、実際には10年どころか7年でGNPは2倍になってしまいました。すごいことです。ちなみにこの人、私と同じ広島県人です。

●オリンピック景気(1962~1964年)
 1964年には、別名先進国クラブ(金持ちクラブ)と呼ばれるOECD(経済協力開発機構)に日本はアジアで初めて加盟を認められました。

●いざなぎ景気(1965~1970年)
 1968年にはGNPが先進国の中では西ドイツを抜いて、アメリカに次ぐ第二位になりました。その結果、日本は世界有数の経済大国として認められます。

●高度経済成長の要因
 この奇跡的のような経済成長を達成することができた要因には次のようなものがあります。

活発な設備投資
 日本企業の経営者は、一度商売で成功したぐらいでは満足せず、もうかったお金を使ってさらに会社を大きくしようとするような欲張りな性格でした。そんな会社を大きくするための設備投資が次々成功し、国際競争力をもった企業をたくさん育てました。このことを1960年の経済白書は「投資が投資をよぶ」と表現しました。

高い貯蓄率
 堅実な性格の日本人は、もうかったお金をコツコツと銀行などの金融機関に預金しました。すると、銀行にたくさんの預金が貯まり、貯まったお金をたくさん企業に貸し出すことができました。当時の企業の資金調達はこのような間接金融に支えられました。

円安(1ドル=360円)の為替レート
 ドッジ・ラインで設定された1ドル=360円の円安為替レートがこの頃、効果を発揮します。超円安により、外国から見た日本製品の価格が安かったため、輸出額が増え、貿易により利益を上げることができました。

安くて優秀な労働力
 日本人は真面目な性格だったため、安い給料でも真面目に黙々と働きました。そんな日本人の真面目さが経済発展に貢献しました。

政府の産業優先政策
 このころの日本政府は、国民にとって住みやすい生活環境を整える政策よりも、工業地帯の建設といった産業優先の政策を行ってきました。その結果、日本は工業国として成長することができたのですが、その代わりに国民の生活環境は悪化し、公害も発生しました。そう考えると日本の経済成長は、国民の生活を犠牲にして成し遂げられたといえるのかもしれません。

協調的な労使関係
 使用者(社長側)と労働組合が基本的に仲が良く、賃上げ要求やストライキなどが少なかった。

安い石油の利用
 当時は石油が安く、日本も、安くて使いやすい石油を大量に輸入します。その結果1960年代にはエネルギーの主役が石炭から石油に移行するエネルギー革命も起き、石油は日本人にとって欠かせないエネルギー源となりました。そんな安い石油を最大限生かし、日本は石油を大量に使用する重化学工業などの産業を発展させ、これらの産業は日本の代表的産業となりました。しかし、日本の経済成長を助けたこの石油に、日本は苦しめられることになります。それが石油危機です。

4.石油危機

1973 第一次石油危機 ・第四次中東戦争をきっかけにした、OPECの石油戦略のため、石油の価格が4倍に値上がり。
・石油不足をきっかけとした不景気と、石油の値上がりをきっかけとした狂乱物価が同時発生するスタフグレーションが発生。
・日本中の小売店からトイレットペーパーが消えるトイレットペーパーパニックが起こる。
1974 戦後初の
マイナス成長
・第一次石油危機の翌年、経済成長率がー1.2%
1975 赤字国債の発行開始 ・この後、1989年まで発行され続ける。
1979 第二次石油危機 ・イラン革命をきっかけとしたアラブ諸国の石油戦略のため、石油の価格がさらに2.4倍に。

 1973年、パレスチナをめぐったイスラエルと周辺アラブ諸国との戦争である第四次中東戦争がおこります。その時、多くのアラブ諸国が加盟するOPEC(石油輸出国機構)は、戦争を有利に働かせるため、石油価格の値上げと、イスラエルを支援するアメリカなどへの石油の輸出禁止を宣言しました。この結果、石油の値段が4倍にまで値上がりし、日本をはじめ、エネルギーをOPEC加盟国からの石油に大きく依存していた国々は石油不足により経済的混乱に陥りました。この事件を第一次石油危機といいます。

 石油不足のため、各工場の生産用機械が起動せず、石油を原材料とするプラスチックなども生産が落ち込みました。その結果、日本は急激な不景気に見舞われ、1974年には戦後初のマイナス成長まで経験しました。さらに、不景気の時には物価は下がる(デフレーション)のが普通なのですが、この時には石油の値上がりを原因とした不景気だったため、石油の値上がりに連動してそのほかの商品の物価も上昇し、不景気にもかかわらず、物価まで上がってしまうという最悪な状況が発生してしまいます。この状態は不景気(スタグネーション)なのに物価の上昇(インフレーション)が起こる状態という意味でスタグフレーションといわれました。

 そんな急激なインフレを押さえつけるため、日本銀行は公定歩合を4.5%から9.0%にまで引き上げます。しかし、そんな公定歩合の引き上げは、不景気に苦しむ企業の資金調達を困難にし、ますます不景気を深刻なものにしてしまいます。

5.安定成長
 そのような混乱の中、多くの企業が、効率的な企業経営(減量経営)を目指し、この不況から脱出しようとします。代表的な例がME革命と呼ばれる動きです。人員を削減して人件費を浮かせようと考えた企業は、会社の中に積極的にコンピュータを導入します。工場ではコンピュータ内臓の生産マシンが商品を作っていくFA化が進みました。事務所では、コンピュータが膨大な会社の情報を管理するOA化が進みました。

 さらに、石油などの資源を大量に使用する重化学工業を中心に発展してきた日本産業も、転換の時期を迎えます。この頃になると、鉄鋼、造船、石油化学といった資源を大量に使う大規模な重厚長大産業から、家電、自動車、コンピュータといった同じ工業でも資源をあまり使わなくても、高度な技術で部品を組め立てれば商品を作ることのできる、加工組立型軽薄短小産業に主力産業が移行していきます。この流れの中、家電・コンピュータでは松下電工、ソニー、日立、富士通、NECなど、自動車ではトヨタ、日産、三菱、ホンダ、マツダなどの企業が世界有数の企業にも急成長し、これらの企業が成長することにより、日本は何とか石油危機の不景気から脱出することができました。

 ところが1979年、今度はイラン革命をきっかけに、再びOPECが石油の価格を2.4倍に値上げする第二次石油危機が発生します。これにより、再び世界中が不景気に見舞われます。

 しかし、日本は少し様子が違いました。日本経済は第一次石油危機の反省を受け、ME革命に代表される徹底的な省エネ・減量経営を目指し、産業の主力も石油を大量には必要としない軽薄短小型の産業への移行がうまくいっていたため、世界中の国々が不景気に苦しむ中、日本経済の混乱はそうでもなく、安定した成長を続けることができ、この頃に日本は世界有数の経済大国の地位を確立しました。

 この頃の日本経済の状況を経済のソフト化・サービス化と表すことがあります。テレビや自動車などの形のある商品のことをハードというのに対し、アイデアや音楽、映像といった形のない商品のことをソフトといいます。まさに、この時期からはハードよりもソフトのほうが重要視されるようになっていきます。さらに、就職先も、形のある商品を作る製造業よりも、形のない行為を提供するサービス業に就業する人が増えました。

 またこのように、経済が発展していくに従って、第一次産業(農業など)就業者が減少し、第二次産業(工業など)就業者が増えた後、最終的には第三次産業(サービス業)就業者の割合が一番多くなることをぺティ・クラークの法則といいます。ぺティが発見し、クラークが証明して見せたことからこの名前がついています。

5.バブル経済

1985 プラザ合意 G5日本、アメリカ、西ドイツ、イギリス、フランスによる会議)において、アメリカの景気回復、貿易赤字解消のため、円高(ドル安)を進めることに合意。
⇒たった3か月で1ドル=240円が1ドル=200円へ
1986 円高不況 ・プラザ合意により進んだ円高により、日本の輸出産業が不振となり、景気が落ち込む。
1986~1991 バブル景気 ①円高対策として、日本銀行が公定歩合を引き下げるが、思ったほど不景気とならず、カネ余りの状態になる。
②余ったお金を使って、株式や不動産(土地、建物)を買うことが流行する。
株式や不動産の価格が急上昇し、これらの売買により多くの人たちが利益を得る。
④急激に金持ちになった人たちが、ブランド品を買いあさったり、海外旅行に行ったりすることがブームとなる。
1991 バブル崩壊 ⑤1989年から公定歩合が引き上げられ、1990年に不動産融資の総量規制が行われた頃から株式や不動産の価格が急激に下がり、売り遅れた人たちが大損する。
⑥多くの人たちが銀行から借りたお金で株式や不動産を買っていたため、銀行に貸したお金が戻ってこなくなり、不良債権が貯まる。
⑦資金が少なくなった銀行が、特に中小企業にお金を貸し出すことに慎重になる貸し渋りが発生し、倒産に追い込まれる企業が増える。
ブル不況(失われた10年(20年))と呼ばれる長期の不景気に突入
1993 BIS規制 ・銀行の国際ルールを決めるBIS(国際決済銀行)が、自己資本比率8%未満の銀行の国際取引を禁止する。
⇒不良債権が増え、自己資本が減っていた日本の銀行は、不良債権がさらに増えることを恐れ、さらに貸し渋りを徹底。
1996 ペイオフ凍結 ・本来、ペイオフは、お金を預けた金融機関が倒産しても1000万円までの預金と金利を預金保険機構が保障するというものであったが、バブル崩壊による金融不安を和らげるため、しばらくは預金の全額保護を約束。

●プラザ合意(1985年)
 第二次石油危機の影響に世界中が苦しむ中、日本は順調に成長を続け、経済は絶好調でした。それに対し、アメリカは第二次石油危機の影響をモロに受け、不景気に苦しみます。

 しかもこの頃は既に、1ドル=360円というふうに為替相場を固定する固定相場制は終了し、毎日のように各国通貨の両替価格が変動する変動相場制に時代に入ってました。これについては23時間目:世界貿易体制で解説します。そんな中アメリカのレーガン大統領は「ドル高=強いアメリカの象徴」と考え、ドル高を進める政策を行ったため、外国から見たアメリカ製品の値段が上昇してしまい、アメリカは輸出が伸びず、経済的に苦しい状況に追い込まれます。

 困り果てたアメリカは、1985年にアメリカのニーヨーク・プラザ・ホテルに日本、西ドイツ、イギリス、フランスの財務大臣(当時は大蔵大臣)と中央銀行総裁(日本の場合は日本銀行総裁)を招待して、G5と呼ばれる会議を開き、5カ国が協力して、ドル安の方向に持っていくことに合意しました。このことをプラザ合意といいます。プラザ合意を受けて、5カ国は積極的にそれぞれの中央銀行の金庫に保有していたドルを市場に売り出し、自国の通貨への両替を開始しました。その結果、大量のドルが世界に出回り、ドルの価値を下げてドル安の方向に持っていたため、アメリカ製品の輸出が増えました。

●円高不況(1986年)
 しかし、ドル安が進むということはそのほかの国の通貨の価値が高くなるということを意味します。日本の場合は円高が進み、その結果、アメリカの代わりに日本の輸出が伸びなくなり、不景気となりました。これが円高不況です。

 この不景気が深刻なものとなる前に日本銀行が手を打ちます。日本銀行は、公定歩合を2.5%に引き下げ、不景気になっても各企業が資金を調達しやすい状況を整えます。

 日本銀行や日本政府がこのように素早い対応をしたのは、自分たちがアメリカの圧力に負けてプラザ合意に合意してしまったせいで、日本を不景気にしてしまったという後ろめたさがありました。しかし、この対応が結果的に裏目に出てしまいます。

 円高になることにより、確かに輸出産業は打撃を受けましたが、日本企業の中にはそんな円高の状況をうまく利用することにより、利益を上げるところも出てきました。例えば、円高を利用して外国から安い原材料を輸入して生産費を節約したり、あるいは外国の商品を輸入して国内で売り出すなどの方法で、それなりの利益を上げる会社もありました。あるいは、円高になると、外国のほうが賃金も安くなるため、生産工場を海外に移転して人件費等を節約する会社も出てきました。これにより、日本企業は利益をあげているけれども、日本人の雇用が減ってしまうという産業の空洞化も進んでいきます。

 このような工夫がうまくいったため、一時的に発生した円高不況以降、思ったほどは不景気にはなりませんでした。その結果、大して不景気でもないのに、銀行からはかなり安い利子でお金が借りることができるというカネ余りの状態が発生します。

●バブル景気(1986~1991年)
 そんな中、経済的に立ち直ってきたアメリカ企業が東京や大阪に支店を出すことを考えており、これから東京や大阪の土地の値段が値上がりすると言う噂が流れます。さらに、この頃119万円で売り出されたNTTの株が、たった2か月で318万円まで値上がりするというニュースも話題になり、「株を買えばもうかる」というイメージを多くの人がもつようになりました。その結果、土地や株を安いうちに買い、値上がりしてから売ってもうけようと考える人たちが増え、土地や株を買うことが大流行しました。しかも、この頃は公定歩合の引き下げにより、銀行から安い利子でお金を買うことができたため、なかには銀行からお金を借りてまで、土地や株を買う人まで出てきました。

 このように、労働によらず、ある商品安い時期に買って、値上がりしたときに売ることによって利益を得ることを財テクといいますが、この時期にはこの財テクが、土地や建物の不動産、株式のほか、ゴルフの会員権、絵画などでも流行し、人々は借金をしてまでこういった商品を買いあさり、利益を得ていきました。

 このような財テクをするときには、ある程度の知識がないとなかなかもうけることはできないはずなのですが、この時期はみんながこういった商品を買いあさっていたため、土地や株などの値段は基本的に上昇を続け、普通のサラリーマンや主婦やOLといった株式の知識があまりない人でも、簡単に株などでもうけることができ、もうけたお金でブランド品を買い、海外旅行に行くことも流行しました。

 この結果、日本は好景気を迎えますが、実はこの好景気はニセモノの好景気と言ってもいい状態でした。というのが、この時期に日本人が金持ちになれたのは、一生懸命働いて何かを作り出したのではなく、持っていた商品が値上がりすることによってもうけただけだったからです。人間楽してもうけるとろくな事はありません。このような好景気のことをバブル景気といいます。バブルとは英語で「あわ」のことです。大きなあわであるシャボン玉は、大きなボールに見えますが、中は空洞で、実際にはほんのちょっぴりの石鹸水で作られています。この大きなシャボン玉を、値上がりした土地や株だと思ってください。そんなシャボン玉の表面を、針でちょっと刺すだけで、何が起こるでしょうか・・・?

6.バブル崩壊
 1990年になって、やっと政府もこの異常な状態に危険を感じます。政府は金融機関に対して不動産融資の総量規制を実施し、銀行が土地や建物の売買を行う不動産会社にお金を貸しにくくします。また、1989年の時点で2.5%だった公定歩合が1年3か月の間に6.0%まで引き上げられ、銀行からの貸出金利も高くなったと感じた企業は、銀行からお金を借りる前に、まずは自ら所有している株式や土地を売ることによって、資金を調達しようと考えます。そんな企業がたくさん出てくることにより、大量の株式や土地が次々に売られ、株式や土地の価格が下落を始めます。さらに、そんな値下がりに驚いた人たちも、あわてて株や土地を売ったものだからさらに値下がりを続け、株や土地で大もうけするはずが、買った価格以上に値下がりし、大損する人たちが多く発生してしまいました。まさにバブルがはじけ、ほんのちょっぴりの石鹸水になってしまったのです。この結果やってきたのが、バブル不況です。

 とくに問題だったのが、銀行から借金をしてまで土地や株を買っていた人たちです。彼らが借金を返せなくなると、銀行にも貸したお金が戻ってこなくなります。銀行はお金を貸すとき、もしお金を返してもらえなかった場合、お金の代わりにもらうことのできる担保を設定することができるのですが、この担保には土地や建物の不動産がよく指定されました。返してもらえなかったお金の代わりに、銀行が担保を手に入れたとしても、担保である土地や建物も急激に値下がりしており、担保を売ったとしても。企業に貸しただけの資金を回収することができません。その結果、銀行には大量の不良債権がたまります。不良債権とは、不良となった借金を返してもらう権利のことです。

 その結果、多くの銀行が新たに貸し出すお金を確保できず、これ以上、不良債権が増えることを恐れた銀行は、企業に対してお金を貸し出すことを控える貸し渋りをするようになってしまいました。この時に特に犠牲となったのが中小企業です。貸し出しに慎重になった銀行は、実績のある大企業には引き続きお金を貸しますが、今まで取引のなかった新興企業に対しては貸し出しを渋り、彼らの成長を助けることができなかったり、彼らを倒産に追い込み、好景気のきっかけをつぶし、不景気をさらに深刻なものにしてしまったと言われています。

 今思えば、政府や日本銀行のバブル対策は、明らかに遅いタイミングでした。総量規制や公定歩合の引き上げがあと1~2年早ければ、ここまで急激に景気が悪化することはなかったでしょう。それができなかったのは、政治家や官僚の中にも財テクにより多額の利益を得ていた人が多かったこともあるでしょう。一度経験してしまったぜいたくな生活をなかなかやめることができず、タイミングが遅くれた結果、その反動による不景気がとんでもないものになり、全然関係ない若い世代が就職難などに苦しむ結果となってしまいました。

6.バブル崩壊後

1997 財政構造改革法 ・国債返済のために、消費税の増税(3%⇒5%)などを実施。
1997 アジア通貨危機 ・タイ通貨バーツの急落をきっかけに、東南アジアや韓国が不景気となり、東南アジアや韓国とつながりの深い日本も不景気に。
2001 ITバブルの崩壊 ・世界的なIT企業への投資ブームが終わり、不景気に。
2001 聖域なき構造改革 ・小泉内閣による、景気をよくするためだけでなく、日本経済を停滞させている古い体質を変革するための改革。
郵政民営化、日本道路四公団の民営化などを実施
・派遣労働者法改正により、製造業の派遣労働者の採用が解禁。
2006 ペイオフ解禁 ・バブル不況の下、1996から金融機関が倒産しても預金保険機構が預金を全額保障してきたが、景気が回復してきたので、通常通り、1000万円までの預金と金利しか保障しないペイオフが復活。
2008 リーマン・ショック ・アメリカのサブプライムローン問題により、大手金融機関リーマン・ブラザーズが経営破綻したことをきっかけにし、世界中が100年に一度と言われる不景気に突入。
2010 ギリシア・ショック ・ギリシア政府が多額の財政赤字を隠していたことが発覚し、ギリシア政府の支援のためにヨーロッパ諸国の資金が使われ、ヨーロッパを中心とした不景気に。
2011 東日本大震災 ・東日本を襲った地震・津波の被害による、経済機能の麻痺、電力不足、消費の減少などにより、不景気に。
2020 コロナ・ショック ・世界的な新型コロナウィルスの流行により、世界中の人・モノ・カネの流れがストップし、世界規模の大不況に。

●財政構造改革法(1997年)
 バブル崩壊を原因としたバブル不況により、1993年には戦後2度目のマイナス成長も記録しました。しかし、その後は1994年、1995年、1996年とプラス成長を経験し、景気は回復してきているように感じられました。1996年に就任した橋本首相は、そんなタイミングを狙って、財政構造改革法を制定します。

 この法律のポイントは、国の収入を増やし、増えた収入で、国の借金を減らすことです。18時間目:財政でもふれたように、高度経済成長期の終わりごろから、日本政府は建設国債赤字国債の発行を始め、日本政府が抱える借金も徐々に増えていき、バブル景気という好景気の時代でさえも借金を減らすことができていない状態でした。そこで橋本首相は、増税などにより政府の収入を増やし、それらのお金を借金返済に充てることにしました。そんな財政構造改革法の目玉が、消費税の増税です。当時、消費税が3%から5%に上がったことはもちろん国民にとってうれしいことではありませんでした。しかし、この頃200兆円ほどだった日本の借金が、現在1000兆円まで増えていることを考えると、未来の私たちが返さないといけない借金を減らそうとした橋本首相の政策は、ありがたい、素晴らしい政策であるともいえるかもしれません。しかし、そんな素晴らしい政策も、タイミングが最悪でした。

●アジア通貨危機(1997年)
 1997年、タイ通貨バーツが急激に値下がりしたことをきっかけに、東南アジアや韓国を中心に不景気になるアジア通貨危機が発生します。その結果、東南アジアや韓国と深いつながりのある日本企業も影響を受け、それが、橋本首相の財政構造改革法の実施と重なってしまったため、日本経済も不景気に見舞われました。そんな中、日本の大手金融機関である、北海道拓殖銀行や山一証券が経営破綻に追い込まれたことは、銀行などの金融機関はつぶれないと思い込んでいた日本人に大きな衝撃を与えました。

 橋本首相が1998年の参議院議員選挙敗北の責任をとって辞任すると、小渕首相が就任します。小渕首相は、橋本首相が、税金を増やし、国債を減らそうとした結果、国民の反感を買っただけでなく、不景気となってしまった教訓を生かし、国債を発行しまくり、国民におカネをばらまくことによって不景気から脱出しようとしました。その結果、ある程度景気は回復しましたが、その代わりに、この年から大量の国債が発行されるようになり、毎年のように大量の国債が発行される流れがこの時に作られたことを知っておきましょう。

●聖域なき構造改革(2001年)
 2000年の流行語大賞に「IT革命」が選ばれたことからも分かるように、小渕首相の頃の景気回復の要因として、インターネット関連のIT関連の企業が世界的に好調だったことがあげられます。ちなみに私が初めてパソコンを買ったのも1999年なので、まさにこの頃です。日本でもヤフーやソフトバンク、楽天などのIT系企業がぐんぐんと業績を伸ばし、日本経済の成長を支えました。しかし、2001年頃から、IT企業の誕生と成長はある程度成熟し、それまで順調に伸びていたIT企業の株価も下落しました。このことをITバブルの崩壊と言います。

 そんな時代に首相になったのが、変人総理小泉首相です。小泉首相は、ITバブル崩壊により再び落ち込んだ日本経済を回復させるだけでなく、日本経済を停滞させてしまっている日本経済の古い体質を改革する「聖域なき構造改革」を実行します。その最も有名な例が郵政民営化です。

 今も全国にある郵便局は、当時は郵政省管轄の国の機関であり、国民の多くが安心して国の機関である郵便局の郵便貯金にお金を預け、ハガキも小包も郵便局を通じて、全国に配達されていました。しかし、そんな郵便局にお金を預ける人が多すぎると、民間の銀行にお金を預ける人が少なくなりますし、郵便配達ばかりが利用され過ぎると、クロネコヤマトや佐川急便のような民間運送会社が利益を上げることができません。その結果、郵便局は小泉首相により民営化され、民間企業となりました。

 小泉首相の在任中は、実質経済成長率がプラスの状態が続きました。この時の好景気のことをいざなみ景気と言います。いざなみとは、いざなぎ景気の時に登場した、日本を作った神様「イザナギのみこと」の奥さん「イザナミのみこと」から来ており、この好景気は長さだけで言えば、いざなぎ景気を超える戦後最長の好景気と言われています。しかし、経済成長率のグラフを見てもらったらわかるように、実際には私を含めた国民の多くが、「えっ、この時期って好景気だったの?」と思うほど、超疑問な好景気であり、この頃の好景気は「実感なき景気回復」とも表現されます。

 実は、小泉首相の景気回復政策というのは、大企業を助けることにより景気を回復させる傾向が強く、この時期は大企業の社員は景気回復が実感できたのに対し、中小企業や一般庶民は景気回復から取り残された感があります。その傾向が特に強いのが、2004年の労働者派遣法の改正です。労働者派遣法により、企業が忙しい時だけ、短期間の契約で、派遣会社に登録された派遣社員(派遣労働者)を雇うことが認めれていますが、派遣社員というのは、その企業との契約期限(だいたい1年)しか雇用を保障されず、短期間の雇用のため、給料が上がることもほとんどなく、正社員との格差が大きいことから、企業が派遣社員を雇えるのは、26種類の仕事に限られていました。しかし、2004年の労働者派遣法改正により、製造業でも派遣社員を雇えるようになります。この制度に多くの企業が飛びつき、わざわざ高い給料を払って正社員を雇わなくても、安い給料で派遣社員を雇い、必要がなくなれば簡単に契約解除するようになりました。このように、この制度は企業の人件費削減に貢献する代わりに、派遣社員のような給料が安く、雇用が長期間保障されず不安定な非正規社員を増やすこととなりました。

 小泉首相の時代に好景気が続いたこともあり、小泉純一郎は今でも国民の人気が高く、その人気は彼の息子の小泉進次郎が受け継いでいます。その一方で、小泉純一郎のことが大嫌いな人は、小泉首相のせいで貧富の差が広がり、現在の「格差社会」のきっかけを作ったと批判します。どっちが正しいのかは議論を呼ぶところですが、炎上しないように無難に答えるならば、「両方とも正しく、政治家の評価というのは難しい」といったところでしょうか。

●リーマン・ショック(2008年)
 小泉首相の引退から3年後、リーマン・ショックが発生します。リーマン・ショックとは、アメリカの大手金融機関リーマン・ブラザーズの経営破綻をきっかけに起きた世界的な大不況のことです。リーマン・ブラザースは、本来、家を買うことができないような低所得者が家を買うために借りたお金を高い利子とともに回収する権利を、中小の金融機関から買い取っており、好景気が続いていた頃は、多くの人たちがお金を返してくれていたため、これらの権利のおかげで結構な利益を上げることができていました。調子に乗ったリーマン・ブラザーズは、これらの権利をもっと買い取るために、サブプライムローンという商品を開発します。サブプライムローンとは、さっき説明した低所得者にお金を返してもらう権利を一般の人たちにも販売する商品のことです。「そんなわけのわからない商品誰が買うんだ?」と、みなさんは思うかもしれませんが、当時、実際にリーマン・ブラザーズのような大手金融機関がその手法によりもうかっていたことや、有名な格付け会社スタンダード&プアーズが、このサブプライムローンを、とってももうかるかつとっても安全なAAA(トリプルA)に格付けしていたことから、このサブプライムローンはバカ売れし、リーマン・ブラザーズは、サブプライムローンでもうかったお金でさらに、権利を買い取り、さらにサブプライムローンを世界中に売るということを繰り返してました。

 しかし、好景気というものは永久に続くものではありません。2006年ごろに住宅バブルがはじけ、低所得者たちがお金を返せなくなると、サブプライムローンを買った人たちの下にお金が戻ってこなくなり、彼らと、この商品を売ったリーマン・ブラザーズが大損します。その結果、リーマン・ブラザーズは倒産の危機を迎えるわけですが、アメリカ政府はそんなリーマン・ブラザーズを救済することなく、リーマン・ブラザーズは倒産してしまいました。

 この影響により、アメリカ中が不景気になったわけですが、一番大きかったのは、リーマン・ブラザースの倒産を見て、その他の金融機関が「リーマン・ブラザーズほどの大きい金融機関でも、アメリカ政府が助けてくれなかったということは、自分の所がつぶれそうになっても政府は絶対に助けてくれない!」と臆病になり、この不景気を脱出するためにお金を借りに来る企業がいても、なかなか金融機関がお金を貸してくれないようになり、多くの企業を見殺しにすることになってしまったことです。

 みなさんの中には、「そんなサブプライムローンなんかのせいで世界や日本がなぜ不景気に?」と思った人もいるかもしれませんが、この時、一番大きかったのは、アメリカの金融機関のお金の流れが止まったために、アメリカ企業の倒産や経営不振が相次いだことだと思ってください。

●コロナ・ショック(2020年)
 2008年のリーマン・ショックによりアメリカが不景気になりました。2010年のギリシア・ショックにより今度はヨーロッパが不景気になりました。そして2011年の東日本大震災により今度は日本が不景気になります。しかし、その後、アメリカもヨーロッパも日本も少しずつ景気を回復させることができましたが、その一番の原因は中国のおかげということができるでしょう。中国がすさまじい経済発展を遂げ、中国を商売相手とすることで、日本経済も再び安定しました。しかし、今度はその中国から流行した新型コロナウィルスの影響により、コロナ・ショックがやってきます。

 コロナ・ショックというかつてない不景気の特徴は、商品が売れなくなったというよりも、人やお金の流れが世界的に止まってしまったことです。楽観的に考えれば、このコロナの影響がなくなれば、止まっていた人やお金が一気に動き出し、世界的に景気が良くなる可能性もあります。しかし、悲観的に考えると、コロナによる影響はずっと続き、これからは感染対策を考えた新たな経済活動を考えないといけないのかもしれません。

 それを面倒くさいとるか、面白いととるか? 少なくとも、昔の人たちはそんな危機に立ち向かいながら、乗り越え、今の世界や日本を作ってきたことを、この章を勉強して感じ取り、みなさんが少しでも前向きになってくれればうれしいです。

2021年12月14日