12時間目:地域紛争

 この時間は、世界中で起きている地域紛争について解説します。東西冷戦の最中は、基本的に大きな戦争が起こらない状態がしばらく続いたのですが、冷戦終結後、米ソを恐れていた緊張が切れたかのように、世界中で地域紛争が多発しました。
 そうは言っても、私が教員になりたての頃、私の授業では7つほどの地域紛争を解説して終わっていたのですが、ほとんどの地域紛争が解決しない中、新たな地域紛争は増えていく一方なので、私が授業で扱う地域紛争も増えていく一方です・・・。とっても多いので、できる限りコンパクトに説明することを心がけます。

★アジアの地域紛争★

1.パレスチナ紛争


 パレスチナ(の中にある特に聖地エルサレム)という土地は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教という3つの宗教にとっての聖地であり、その結果この土地に自分たちの国を作りたいユダヤ人(ユダヤ教、イスラエル)アラブ人(イスラム教、パレスチナ)の間で繰り広げられているのがパレスチナ紛争です。

 ユダヤ教の聖書(旧約聖書)によると、今から約4000年前にユダヤ人は、ユダヤ教の神ヤハウェからカナーンの地(現在のパレスチナ)を与えられ、この場所にはユダヤ人がイスラエル王国を作って栄えた時期もありました。しかし、今から約2000年前、パレスチナはローマ帝国に支配され、ユダヤ人たちはローマ帝国の国教であるキリスト教の神イエスを殺した悪い民族というレッテルを貼られ(イエスもユダヤ人なのですが・・・)、この場所を追放されてしまいます。その結果、多くのユダヤ人がヨーロッパ各地に移り住むようになりました。そして、ユダヤ人が追放されたあとのパレスチナにはアラブ人がたくさん住むようになり、その後、ここに住むアラブ人たちはイスラム教徒となっていきます。
 さらに時は流れて1930年代、ヨーロッパでナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺が始まり、約600万人ものユダヤ人たちが虐殺されると、世界中がかわいそうなユダヤ人に同情的になります。するとイギリスやアメリカを中心に「ユダヤ人がかわいそうな目に合うのは自分たちの国を持ってないからだ。だからユダヤ人の国を作ってあげよう」という運動(シオニズム)が盛んになります。その流れを受け、1947年には国連がパレスチナの56%の地域にユダヤ人の国を、43%の地域にアラブ人の国を建国し、両者にとっての聖地であるエルサレムは国際管理地区にしようとするパレスチナ分割案を決議します。その結果、ヨーロッパからヒトラーの手を逃れて大量のユダヤ人が、命からがらパレスチナに逃げ込み、1948年にはユダヤ人国家イスラエルの建国を宣言します。
 しかし、パレスチナには長らくアラブ人たちが住んできました。その結果、周辺のアラブ諸国(エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラク)はイスラエルの存在を認めず、イスラエルとの戦争となりました。これが第一次中東戦争です。この戦争に勝利したイスラエルは国連の分割案よりも広い地域を支配することに成功し、多くのアラブ人たちが住む場所を追われ難民(パレスチナ難民)となってしまいます。その後、イスラエルとアラブ諸国は合計4回の中東戦争を戦いました。

 イスラエルによって奪われたアラブ人の土地を取り返すことを目的としてPLO(パレスチナ解放機構)という組織ができました。この組織のリーダーにアラファト議長が就任した頃からPLOは戦闘的な組織となり、イスラエルに対しテロやゲリラ活動を行うことによって対抗します。1987年にはイスラエルに占領されたガザ地区で、アラブ人たちがイスラエル軍に対して石を投げつける抵抗運動(インティファーダ)が始まりました。石を投げるだけのアラブ人住民に対しイスラエル軍は銃弾で応戦し、1116人ものアラブ人たちが犠牲になりました。特に、小さなことどもたちが犠牲になるニュースも世界に流れ、この頃から世界はアラブ人に対して同情的になります。
 そんな中1993年には、ノルウェー仲介の下、ユダヤ人とアラブ人の居住区を分けるオスロ合意により、両者は和解の方向に向かいました。和平協定はアメリカのホワイトハウスで、アメリカのクリントン大統領が立ち会う中、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長の間で結ばれ、イスラエルの周りのヨルダン川西岸地区ガザ地区にアラブ人が住むことのできる地域を作り、そこにアラブ人の国家であるパレスチナ暫定政府が作られることになりました。この和平協定は世界的にも評価され、翌年にラビン首相とアラファト議長はノーベル平和賞を受賞します。しかし、そんなラビン首相が仲間であるはずのユダヤ人に暗殺され、その後、和平反対派のネタニヤフやシャロンが首相になると、また両者の関係は悪くなってしまいました。

 結局、オスロ合意は破られ、現在もアラブ人の居住地域であるはずのヨルダン川西岸地区やガザ地区には多くのユダヤ人たちが居住し、イスラエル軍が駐留しています。難民キャンプでの苦しい生活に未来を悲観したアラブ人たちが自爆テロを起こし、その報復としてイスラエル軍がアラブ人を攻撃する。こうした悪循環により多くの人たちが今も犠牲になっています。

2.イラン核疑惑
 イスラム教は大きく分けてスンニ派(イスラム教徒の85%)とシーア派(イスラム教徒の15%)に分類されますが、少数派であるシーア派を唯一国教にしているの国がイランです。イランでは長らく親アメリカ派であるパーレビ国王の下、文化や経済のアメリカ化(資本主義化)が進んでいたのですが、その結果、イスラム教の伝統が失われたことや、貧富の差が拡大してしまったことに不満を持ったホメイニたちが1979年にイスラム革命(イラン革命)を起こしてパーレビ国王を追放し、ホメイニ師を最高指導者としたイスラム教に厳格な政治を始めました。その結果、イランとアメリカは国交を断絶し、イランはアメリカを「大悪魔」、アメリカはイランを「悪の枢軸」とけなし合う関係が続いていました。
 そんなイランが核兵器の開発を行っている疑惑が持ち上がります。これをきっかけにアメリカを中心とする国々は経済制裁を行ってイランに圧力をかけてきましたが、制裁が効いた頃に就任したイランのロウハニ大統領は2013年にアメリカのオバマ大統領と電話会談を行い、2015年にはイランと米英仏ロ中独6か国とのの交渉を行うことにより、イランは核施設を減らし平和利用に限定することを条件に、経済制裁を緩めてもらうことができました。
 しかし、オバマ大統領の後にアメリカの大統領になったトランプ大統領は、この合意ではイランの核開発を抑制できないとして脱退。イランに対する制裁を再開する方針を打ち出しました。オバマ大統領の時代に歩み寄りを見せたアメリカとイランでしたが、再び対立の方向へと向かいつつあります。

3.シリア内戦
 シリアでは1971年からもう45年以上アサド親子による独裁政治が続いています。フランスの植民地時代、フランスはシリア国内におけるイスラム教の少数派であるアラウィー派(シーア派の一派)を支援し、多数派のスンニ派を支配させる形で両者を対立させ、植民地支配に成功していました。シリアがフランスから独立した後もこの関係は続き、アラウィー派であるアサド大統領が多数派のスンニ派を弾圧するという独裁政治を行うことにより、シリアという国は統治されてきました。
 しかし、2011年にアフリカのチュニジアから始まったアラブの春と呼ばれる民主化運動の流れを受け、シリア国内でもアサド大統領から迫害を受けてきたスンニ派の人たちが反政府組織を立ち上げてアサド大統領に反抗します。反政府組織の中でも自由シリア軍と呼ばれる組織にはアメリカや同じスンニ派のサウジアラビア、クウェートなどが支援をしてきました。それに対してアサド大統領の政府軍には古くから関わりの深いロシアや同じシーア派であるイランが支援を行ってきました。そんな中、アサド大統領の政府軍が自由シリア軍に対して国際法上禁じられている化学兵器を使用した疑惑も出てきます。しかし最近は、ロシアとの対立を避けるためにアメリカが自由シリア軍への支援に消極的になってきました。その結果、アサド大統領が自由シリア軍を押さえつけ独裁政治体制をまた確立しつつあります。

4.クルド人問題
 イラン、イラク、シリア、トルコ、アルメニアの国境にあたる山岳地帯を中心にクルディスタンと呼ばれるクルド人の居住地域があります。クルド人は「独自の国を持たない世界最大の民族」とも呼ばれ、その数約3000万人。周辺国の人たちと同じイスラム教徒(の中でもスンニ派)が多いのですが、独自のクルド語を話す独自の文化を築いてきた青い目の(人たちが多い)民族です。
 第一次世界大戦まで、クルディスタンはオスマントルコの領土だったのですが、戦争に負けたオスマントルコの領土は戦勝国であるイギリスとフランスにより分割されてしまいました。この時、イギリスとフランスはクルド人の居住地域とは関係なく国境線を引いたため、クルド人居住地域はイラン、イラク、シリア、トルコなどに分断され、クルド人たちはそれぞれの国で少数民族として迫害されることとなります。
 クルド人の多くが、クルド人独自の国を作りたい、あるいは国でなくてもある程度の自治を行える地域にして欲しいと思っているのですが、その結果、それぞれの国との対立を生み出しています。そんな中、1991年の湾岸戦争、2003年のイラク戦争、あるいは2014年からのイスラム国との戦いでは、クルド人の軍隊がアメリカからの支援を受けて勇敢に戦い、イラクのフセイン政権の打倒、イスラム国の壊滅に貢献しました。彼らは「頑張って戦えば、アメリカが自分たちの国を認めてくれるかもしれない」という希望もあり、命を懸けて戦ったわけですが、戦争終結後はアメリカからは無視され、未だにクルド人の国は作られていません。また、トルコではエルドアン大統領によるクルド人弾圧が厳しく、それに反発したクルド人過激派によるテロ活動もよく起きています。

5.中国
 共産党による社会主義政権である中国では基本的に宗教の自由が認められていません。その結果、共産党による厳しい宗教弾圧を受けている地域があります。それがチベット新疆ウイグル自治区です。

●チベット問題
 ヒマラヤ山脈のふもとにあるチベット国では、チベット仏教というちょっと特殊な仏教が信仰されてきました。チベット仏教は政教一致の宗教で、宗教のトップが政治のトップも担当してきました。そんなチベット仏教の宗教指導者兼政治指導者ダライ・ラマで、ダライ・ラマは弥勒菩薩の生まれ変わりとされています。
 1934年に13代目の弥勒菩薩の生まれ変わりであるダライ・ラマ13世が亡くなりました。その結果、弥勒菩薩はチベットのどこかで今度はダライ・ラマ14世として新たに生まれ変わります。しかし、生まれ変わったばかりのダライ・ラマ14世はまだ赤ちゃんで、自分が指導者であることも知りません。よって、チベットのナンバー2であるパンチェン・ラマ(阿弥陀仏の生まれ変わり)がチベットの中からダライ・ラマを探し出す旅に出かけます。約2年間の旅の末、パンチェン・ラマはチベットの小さな村で2歳の子供を発見します。これがダライ・ラマ14世で、今もチベットの指導者としてご存命です。
 しかし、1950年に4万もの中国軍がチベットに侵攻してきました。もともとチベット国は穏やかな仏教国で、軍隊もそんなに大した戦力ではありませんでした。圧倒的な戦力差の中、15歳のダライ・ラマ14世の指導の下、チベット軍は中国軍と必死に戦ったのですが、パンチェン・ラマが裏切って中国側に着いたこともあり、チベットは中国に編入されチベット自治区となってしまいました。編入後もダライ・ラマ14世は中国政府に対してチベットの自治権や宗教の自由を求めてきましたが、チベットの中で中国共産党のチベット人弾圧が強まる中、命の危険を感じたダライ・ラマ14世はインドに亡命しました。
 インドに亡命したダライ・ラマ14世は、インドに亡命政府を作り、ここでチベットの自治権の獲得と中国によるチベット人弾圧の悲劇を世界に訴え、その成果が認められてノーベル平和賞も受賞しました。
 1989年には中国国内で生活していたパンチェン・ラマ10世が亡くなりました。ダライ・ラマが亡くなった後、新しく生まれ変わったダライ・ラマをパンチェン・ラマが探しに行ったように、パンチェン・ラマが亡くなった時にはダライ・ラマが新しいパンチェン・ラマをチベットの中から探しに行かなければなりません。インドに亡命していたダライ・ラマはチベット内の部下に命じてパンチェン・ラマを発見したのですが、発見した直後にパンチェン・ラマとその両親は行方不明になってしまいました。恐らく中国共産党に捕らえられたといわれています。そしてダライ・ラマ14世も現在84歳とご高齢で、いつ亡くなってもおかしくない状態です。ダライ・ラマ14世が亡くなっても新しいダライ・ラマ15世を探しに行くパンチェン・ラマはいません。そして、長らく中国共産党による支配が続いたチベットでも人口の多くを中国人(漢民族)が占めるようになり、チベット人は少数派になりつつあります。このままいけばチベット問題が自然消滅してしまうのも時間の問題です。

●ウイグル問題
 現在、チベット以上に中国共産党が弾圧に力を入れているのが、新疆ウイグル自治区に居住するウイグル人です。中国にとって、トルコ系イスラム教徒であるウイグル人は文化的にも人種的にも理解しづらいやっかいな存在で、近年、彼らに対する弾圧が厳しくなってきました。そんな弾圧に反対してウイグル人も国政府に対してテロを起こすという事件まで起きてしまい、さらに弾圧が強まるという悪循環が起きてしまっています。

 外国人による新疆ウイグル自治区の取材は中国政府によって制限されていることもあり、なかなか情報も入ってこないのですが、アメリカの人権活動家によると100万人以上のウイグル人が再教育のための強制収容所に入れられているという証言もあります。

●南沙諸島(スプラトリー諸島)問題
 ベトナム、フィリピン、スラウェシ島に囲まれた南シナ海に南沙諸島(スプラトリー諸島)というサンゴ礁の島々があります。地図から見てわかるように、すぐ近くにあるベトナム、フィリピンとスラウェシ島にあるマレーシア、ブルネイなどが「この島は我々のものだ!」と訴えるのはまだわかるのですが、南沙諸島のはるか北にある中国も「この島は中国のものだ!」と言い始め、いくつかのサンゴ礁の島々を勝手に埋め立てて軍事施設を建設し、実効支配をしてしまっています。

 

6.ミャンマー


 現在ミャンマーと呼ばれている国はかつてビルマと呼ばれていました。ビルマは長らくイギリスに植民地支配され、第二次世界大戦中は日本の植民地だった時期もあります。そんなイギリス軍や日本軍と勇敢に戦いビルマを独立に導いた英雄アウン・サン将軍でした。ビルマ独立後、アウン・サンはビルマの首相になることが決定していたのですが、その首相就任の3日前に暗殺され、悲劇の英雄となってしまいました。
 アウン・サンの死後しばらくすると、ビルマは軍隊が支配する軍事独裁の国となり、政府を批判する人たちを軍隊が弾圧してきました。そんな中、1988年から大学生を中心に民主化を求める運動が激しくなり、混乱の中、クーデターにより政権獲得に成功した軍人ソウ・マン国名をビルマからミャンマーに変更し、民主的な選挙を行って国会を開くことを約束します。
 ソウ・マンの予定では、この選挙で自分が作った政党が多数党を獲得し、合法的に自分がミャンマーの指導者になる予定だったのですが、ここで英雄アウン・サンの娘アウン・サン・スー・チーが現れることにより予定が狂います。2歳の時に父親を亡くしたアウン・サン・スー・チーは母親がインド大使に任命されたためインドに移住し、そこでインドの英雄ガンジーの非暴力運動を学びました。その後イギリスのオックスフォード大学に入学し、そこで出会ったイギリス人マイケル・アリスと結婚し2人の男の子にも恵まれました。その後、日本の京都大学でも留学経験があるという国際派で、選挙が行われることが決まったこの時期はちょうど母親の介護のためにミャンマーに帰国している最中でした。
 ミャンマー国民の期待を受け亡き父親の意思を引き継ぐことを決めたアウン・サン・スー・チーはNLD(国民民主連盟)という政党を立ち上げて選挙を戦い、485議席中392議席を獲得して圧勝しました。しかしこの快進撃をよく思わないソウ・マンは選挙期間中にアウン・サン・スー・チーが選挙違反をしたという言いがかりをつけてアウン・サン・スー・チーを自宅に軟禁し、選挙結果も無視し、軍隊による独裁を続けました。
 アウン・サン・スー・チーはその後、時々軟禁を解かれた時期もあったのですが、軟禁生活は2010年まで続き、1999年に夫がイギリスで亡くなった時もその死に立ち会うことができませんでした。そんな中でも世界に向けてミャンマーの民主化を訴えた活動が認められ1991年にはノーベル平和賞も受賞しました。
 2010年には、軍事政権出身の大統領テイン・セインがアウン・サン・スー・チーと手を組むことを約束し、2015年に再び選挙を実施します。その選挙を受けて、NLDは323議席中255議席を獲得し、晴れてアウン・サン・スー・チーを指導者とする政権が誕生しました。しかし、軍事政権は選挙が行われる前に憲法を改正し、海外に家族がいる人は大統領にはなれないという規定を作ってしまいます。明らかにアウン・サン・スー・チーを大統領にしないための規定でした。その結果、アウン・サン・スー・チーは大統領にはなれず、国家顧問という役職から大統領を補佐(といいながら実際には大統領以上)し政治を行っています。

●ロヒンギャ問題
 そんなアウン・サン・スー・チーがノーベル平和賞をはく奪されるのではないかという事態が起こっています。
 ミャンマーは基本的には仏教国なのですが、バングラディシュとの国境地帯(の主にラカイン州)にロヒンギャ族というイスラム教徒が住んでいます。このロヒンギャ族がミャンマー軍からの弾圧にあい、イスラム教国であるバングラディシュに逃げ出し、難民化してしまっています。そんなロヒンギャ族に対しアウン・サン・スー・チーたちは充分な救済措置を行ってきませんでした。これには、まだミャンマーの民主化は確立しておらず、アウン・サン・スー・チーたちは軍との関係を悪化させないために、軍に気を使っている背景もあるわけですが、自分たちの政治基盤を優先させるために、ロヒンギャ族という少数民族を見殺しにしたことが国際的に批判を受けています。

7.カシミール紛争


 イギリスから長らく植民地支配を受けていたインドの独立運動は、20世紀初め、絶対的指導者ガンジーの出現により大いに盛り上がりました。インド人の多くはヒンドゥー教徒ですが、イスラム教徒も多く、宗教的な考え方の違いから、両者が対立することもあったのですが、ガンジーの指導のもとヒンドゥー教徒もイスラム教徒も団結し、最終的にインドはイギリスからの独立を勝ち取ります
 しかし、独立を達成したと思ったら、ガンジーの願いもむなしく、再びヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が始まります。その結果、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒は和解することができず、インドはヒンドゥー教徒が多数を占めるインドイスラム教徒が多数を占めるパキスタンに分裂してしまいます。さらに、1971年にはパキスタンからバングラディシュが独立し、その結果、もともとインドと呼ばれていた国は、宗教上の違いから3つの国に分裂してしまいます。
 インドからパキスタンが分離独立するとき、2つの国に挟まれた「カシミール地方」をどちらの領土にするかが問題となります。カシミール地方の住民はイスラム教徒が多く、住民の多くはパキスタンの領土となることを望んでいたため、この動きを助けるためパキスタン軍がカシミールに侵入してきます。それに対し、ヒンドゥー教徒だったカシミールの藩王(マハラジャ)は、住民の意思とは関係なく、勝手にインド政府と手を結び、インド軍もカシミール地方に派遣されることになりました。ここにカシミール地方をめぐるインドとパキスタンの戦争がスタートします。
 1949年には国連の仲介のもと、停戦が合意され、カシミール地方は2つの地域に分断されてしまいます。しかし、両者ともカシミールの完全支配をあきらめたわけではなく、その後も2度ほど両国による大きな戦争がありました。その後は大戦争にはいたらなかったものの、両軍による銃撃戦、テロは毎年、毎日のように繰り返され、本来豊かな地域であったカシミール地方は、長引く対立のため、荒れ果てた土地になってしまいました。
 両者の対立は、核兵器開発競争にまで発展します。1998年には両国が相次いで核実験を実施し、対立するインドとパキスタンはそろって核兵器を持つ国となってしまいました。そうなると、カシミール紛争が激しくなると核兵器が使用される危険性もでてきており、カシミール紛争はさらに世界的に注目されるようになり、現在に至ります。 

8.東ティモール 


 大航海時代にティモール島にやってきたポルトガル人は、ティモール島の東地域を中心にキリスト教を広め、16世紀から東ティモールポルトガルの植民地になりました。その後、東ティモールは第二次世界大戦中に、オーストラリアや日本に支配されたこともありましたが、第二次世界大戦終結後はポルトガルによる支配が復活し、1974年まではポルトガルの植民地である状態が続きました。しかし、1974年にポルトガルが世界各地の植民地の解放を発表すると、東ティモールでは社会主義政党の東ティモール独立戦線(フレティリン)を中心に独立国作りが進み、この年に社会主義国家「東ティモール民主共和国」の独立を宣言します。
 しかし、フレティリンと対立し、東ティモールの社会主義国化が嫌だった少数派の民主連合(UDT)とティモール人民民主主義協会(アポデティ)は、隣りの国のイスラム教インドネシアのスハルト大統領と連絡を取り合い、東ティモールをインドネシアと合併させることにより、社会主義国の誕生を防ごうとしました。
 しかし、これを機会にスハルト大統領は大量のインドネシア軍を派遣し、フレティリンを中心とする社会主義勢力や、東ティモールの独立を主張するキリスト教団体を弾圧し、軍事力により東ティモールを支配しようとします。これにより東ティモールの人口65万人のうち、20万人がインドネシア軍の弾圧によって殺害され、女性の2割がインドネシア軍によりレイプされたという話です。そして、1978年末に東ティモールはインドネシア軍によって完全に制圧され、インドネシアの領土の一部となったのですが、そんな強引な方法により侵略されたため、これ以後、東ティモール住民はインドネシア政府を恨むようになります。東ティモールにはそんなインドネシア政府に反発する住民が多かったため、その後もインドネシア軍は東ティモール住民の弾圧を続け、武力で住民を従わせてきました。

 しかし、1991年に大きな事件がおきます。この年、東ティモールの首都ディリで、東ティモール独立運動の指導者セバスディオ・ゴメスがインドネシア軍に射殺されるのですが、その後の彼の葬儀に参列した人たちが独立のスローガンのプラカードを掲げたデモ行進を行ったところ、インドネシア軍が彼らに発砲します。これにより東ティモール独立支持者のうち200人以上が死亡するのですが、インドネシア政府は死者は19人であり、たいした事件ではないと発表します。しかし、この時、たまたま居合わせたイギリステレビ局がこの様子を隠し撮りしており、その映像が海外で放映され、世界中に東ティモールの事実が暴露されました。
 さらに1996年には、東ティモール問題の解決に奔走するカルロス・ベロ司教と、亡命中の独立運動家ラモス・ホルタが、ノーベル平和賞を受賞するなど、東ティモール問題への国際的な関心は徐々に高まっていきます。
 そして1998年には、インドネシアの独裁者スハルト大統領の失脚により、インドネシアで民主的な選挙が行われ、新しく就任したハビビ大統領は東ティモールの独立を支持する考えを発表しました。その結果、1999年に東ティモール独立の賛否を問う住民投票が行われ、住民の78.5%が独立を支持しました。しかしその直後、独立に反対するイスラム教徒が独立賛成派を襲撃し、600人以上が殺害される事件も起き、東ティモール内でも多数派のキリスト教徒と少数派のイスラム教徒の対立が根強いことが心配されました。それでも、なんとか2002年5月、東ティモールはインドネシアから独立し、「東ティモール民主共和国」は21世紀最初の独立国となりました。

★アフリカの地域紛争★

9.ルワンダ
 アフリカ大陸の中央部にルワンダという国があります。この国は昔ベルギーの植民地でした。ルワンダには人口の85%を占めるフツ族(農耕民)14%を占めるツチ族(牧畜民)が住んでいるのですが、植民地時代、ベルギーは少数派であるツチ族に政治を担当させることによりフツ族がツチ族に反発するようになり、両者を対立させることによって彼らが団結してベルギーに対抗するのを防ぎ、植民地支配を可能にしてきました。
 しかし、1962年にルワンダが独立し、ベルギーが撤退すると、多数派であるフツ族が政治を担当するようになりますが、1994年、フツ族のハビャリマナ大統領の乗った飛行機が撃墜されて死亡すると、怒った政府軍とフツ族過激派によるツチ族の大量虐殺が行われました。この虐殺では100日間で80~100万人が殺され、虐殺を恐れた人々は周辺国に逃げ出し、日本の自衛隊もそんな難民たちの救済のためにルワンダの隣国ザイール(現コンゴ民主共和国)に派遣されました。

10.スーダン・南スーダン
●南スーダン独立
 長らくイギリスとエジプトにより共同統治されていたスーダンは1956年に独立を果たしました。しかし共同統治時代、イギリスとエジプトは、イスラム教徒が多い北部と、キリスト教徒・伝統宗教の信者が多い南部を分割して統治していたため、スーダンが独立するときも、南部の人たちの多くは別の国として独立することを望んでいました。その結果、独立後もスーダンでは北部と南部による内戦が勃発し、この内戦はアフリカ最長の内戦と呼ばれました。
 この対立は2003年にスーダンから南スーダンが独立することによってやっと終わります。その結果、南スーダンという国が誕生し、これで平和が訪れると思いきりゃ、今度は南スーダンの内部で大統領派と前副大統領派による内戦が始まりました。内戦による混乱から市民を守るため、日本の自衛隊も2012年からPKOとして南スーダンに派遣されました。しかし、あまりにも事態が悪化したために2018年には自衛隊は南スーダンから撤退しました。

●ダルフール紛争
 スーダンと南スーダンとの内戦が宗教対立の特徴があったのに対し、スーダンではイスラム教徒同士の対立であるダルフール紛争もありました。スーダン政府はアラブ系民族(遊牧民族)が主流であるのに対し、スーダン西部のダルフール地方にはアフリカ系民族(農耕民族)がたくさん住んでいます。この2つの民族は昔から牧草地や水をめぐって争ってきたのですが、2003年からアラブ系の民間兵隊組織ジャンジャウィードが、民族浄化の名のもとにアフリカ系住民の大量虐殺を開始し、これをスーダン政府が見て見ぬふりをするという事態になりました。この事態を国連は「世界最大の人道危機」と表現し、2009年には国際刑事裁判所がスーダンのバジル大統領に対して逮捕状を出すなど、スーダン政府は国際的に孤立し、非難されました。 

11.アラブの春


 2010年にアフリカ大陸北部のチュニジアで、市場で行商をしていた若者が警察官に商売道具の屋台を没収されたことに絶望し、焼身自殺した事件がSNSで拡散して多くの人たちに知られることとなりました。その影響により、政府に不満を持ったチュニジア国民がSNSで連絡を取りながら大規模なデモ活動を展開し、独裁を続けてきた大統領を退任に追い込みました。この動きは他の中東アジア、北アフリカのアラブ文化圏にも広まり、エジプト、リビア、シリア、イエメンなどでも独裁者に対するデモ活動が起こりました。この一連の動きのことをアラブの春と言います。
 この結果、チュニジアでは23年間独裁を続けてきたベンアリ大統領が、エジプトでは30年間独裁を続けてきたムバラク大統領が、リビアでは42年間独裁を続けてきたカダフィ大佐が退陣しました。その後、チュニジアでは民主化が進みましたが、エジプトやリビアではその後も政治的混乱が続き、事態は収束していません。とくにエジプトでは、ムバラク退陣後の民主的な選挙でモルシ大統領が選ばれたのですが、その後、軍がクーデターを起こしてモルシ大統領は実権を奪われ、今は軍が支援するシーシ大統領による軍事独裁が行われています。
 アラブの春の影響で、シリアイエメンでも反政府活動が盛り上がりましたが、これらの国では逆に政府軍と反政府軍との内戦がさらに激しくなり、事態がさらに深刻化してしまいました。その後、シリアでは親子で48年以上も独裁を続けているアサド大統領が反政府軍の鎮圧に成功し、独裁体制を維持していますし、イエメンでは内戦が未だに集結せず、不安定な状態がまだ続いています。

★ヨーロッパの地域紛争★

12.ユーゴスラビア紛争


 東西冷戦のところで少しやりましたが、第二次世界大戦後、ユーゴスラビア社会主義国として誕生しましたが、社会主義国でありながらソ連陣営には属さず、独自の社会主義路線を進むことになります。ユーゴスラビア大統領に就任したチトーは、ソ連からの脅威に備えるため、国民に団結することを呼びかけます。ユーゴスラビアにはたくさんの民族が住んでいたのですが、チトー大統領の政策やソ連への警戒心からうまく人々は団結することに成功します。その結果、1984年にはユーゴスラビアの都市サラエボで冬季オリンピックが開かれるほど平和な時期もありました。
 しかし、1981年にチトー大統領が死亡し、1988年にミロシェビッチが大統領に就任。さらに1991年にソ連が崩壊した頃から、ユーゴスラビアは崩壊を始めます。ユーゴスラビアでもっとも多い人口を占めたのがセルビア人で、ミロシェビッチ大統領もセルビア人でした。その結果、ミロシェビッチは大セルビア主義というセルビア人をひいきする政治を始めてしまいます。しかも、ソ連が崩壊した関係で、国民の中にもソ連に対抗するためユーゴスラビアとして団結するという意識も薄れてしまいました。その結果、1991年にはミロシェビッチの政治に反発して、スロベニア人がスロベニア、クロアチア人がクロアチア、マケドニア人がマケドニアとして、ユーゴスラビアからの分離独立を宣言します。

 激しい戦闘の後、この3つの国は独立を果たしますが、ユーゴスラビアにとっては追い討ちをかけるように1992年にはイスラム教徒が多いボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立を宣言します。しかし、このボスニア・ヘルツェゴビナにはイスラム教徒44%の他に、セルビア人が38%、クロアチア人も14%住んでいるので、セルビア人がボスニア・ヘルツェゴビナの独立に反対し、ユーゴスラビア政府の支援を受けて、イスラム教徒&クロアチア人の勢力と戦争を始めます。この戦争にはNATOがセルビア人勢力に対して空爆を行うなど、かなり泥沼化しましたが、1995年に国連の仲介のもと和平が結ばれ、現在ボスニア・ヘルツェゴビナは1つの国の中に主にイスラム教徒&クロアチア人が居住するボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人が居住するスルプスカ共和国に分割されました。両者の住み分けにより戦争は終わったのですが、緊迫したムードは未だに続いています。

 1998年からはアルバニア系住民の多いコソボが独立を求めて戦うコソボ紛争が始まりました。これはセルビア人(ユーゴスラビア軍)が長らくコソボでアルバニア系住民を弾圧していたことを原因とした戦争でした。この紛争でもNATOがセルビア人勢力に対して空爆を行い、最終的にユーゴスラビア軍はコソボから撤退して、しばらくコソボは国連の管理下に置かれました。
 その後、2006年には国民投票の結果を受けてモンテネグロが独立し、2008年にはコソボも独立を宣言最後にセルビア共和国が残りましたが、セルビアはコソボの独立を今も認めていません。結果、元々ユーゴスラビアと呼ばれていた国は7つの国に分裂してしまいました。

13.イギリス


●EU離脱問題
 東西冷戦終結後、EUに東ヨーロッパの国々が加盟するようになると、EUでは労働力の自由移動を認めているため、賃金の安い東ヨーロッパ(特にポーランド)からイギリスへの移民が急増しました。その結果、イギリス人が彼らに仕事を奪われただけでなく、イギリス人が税金を払うことによって作り上げてきたイギリスの高福祉サービスが、多くの外国人にも提供されていることにもイギリス人は不満を持っていました。そして、イギリス人の中には、もしイギリスがEUから離脱すれば、イギリス人の生活はもっと豊かになるのではないのかという話が浮上してきました。
 そんな中、2016年にイギリスのEU離脱を問う国民投票が実施されました。当初は離脱反対派が勝利し、イギリスはEUに留まるだろうという楽観的な予想が出ていましたが、実際には離脱賛成派が僅差で勝利し、イギリスのEU離脱が決定しました。そんなイギリスのEU離脱により、これから経済的な混乱も予想されているのですが、イギリス国内でも次のような問題が再び注目されています。

●北アイルランド紛争
 日本語でイギリスという名前の国の正式名称は「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」といい、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの地域の連合王国です。イギリスはワールドカップ・サッカーにもこの4つのチームで参加しているので、サッカーに詳しい人は知っているかもしれません。ただ、この4つの地域のうち、北アイルランドだけは、不自然な位置にあることに気づいてもらえるでしょうか?
 現在はアイルランド島のうち北の一部分がイギリスの領土ですが、1921年まではアイルランド島全体がイギリスの領土であり、国名も「グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Ireland)」でした。
 イギリスでは、国民の多くがキリスト教のプロテスタント(の中でもイギリス国教)ですが、アイルランド島にはカトリックが多いこともあり、1921年にアイルランドはイギリスから分割され、1949年にはアイルランド共和国として独立を果たしました。しかし、アイルランド島の中でもプロテスタントが多い地域であった北部のアルスター地方(人口の63%がプロテスタント)は、住民の意向で北アイルランドとしてプロテスタントの国であるイギリスに残ることになります。
 しかし、アイルランド人の中でもアイルランド島全土の統一を願う人たちが、過激派組織IRA(アイルランド共和国軍)を組織し、北アイルランドの分割に反対し、北アイルランドやイギリス本土でプロテスタントやイギリス人をねらったテロ活動を行ってしまいます。また、北アイルランド内でもプロテスタントとカトリックの衝突や暴動が起こりました。
 1998年になると、イギリス政府とIRAによる和平会議が開かれ、何とか和平が成立しました。その結果、両者の和解に貢献したジョン・ヒュームとデビッド・トリンブルがノーベル平和賞を受賞しました。その後、対立は沈静化しましたが、沈静化した理由の一つとしてイギリスとアイルランドがともにEUに加盟したことにより、両国の行き来が自由になり、北アイルランドがイギリスから分離する意味があまりなくなったというのもありました。しかし、イギリスがEU離脱をすると、北アイルランドとアイルランドの国境管理が厳しくなる可能性が高まっており、またこの北アイルランド問題が注目されるようになってきました。

●スコットランド独立問題
 ケルト人系のアイルランドと同じく、イギリスの北部にあるスコットランドケルト人を祖先とするスコットランド人が多く住んでおり、ゲルマン人系のイングランドと歴史的に対立してきました。ここ最近では、スコットランドにある北海油田の石油の利益がイングランドの中央政府に奪われてしまっていることや、イングランド(特にロンドン)との経済格差が大きくなったことに不満を持ち、2014年にはスコットランドのイギリスからの独立を問う住民投票が実施されました。
 住民投票の結果、わずかの差で独立は否決され、スコットランドはイギリスに留まることになりましたが、今回、イギリスがEUから離脱することになったのに対し、スコットランドにはEU残留を望んでいる人が多いこともあり、イギリスがEUから離脱した後、今度はスコットランドが再びイギリスからの独立に動き出すのではないかという話も出てきています。

14.ベルギー


 日本ではゴディバのチョコレートなどで有名なベルギーは、オランダ、フランス、ドイツ、ルクセンブルクと国境を接します。ベルギーは北部のフランデレン地域と、南部のワロン地域に分けることができるのですが、フランデレン地域はオランダ語を話す人たちが多く、ワロン地域はフランス語を話す人が多いです。さらに、裕福なフランデレン地区とワロン地区の経済格差も問題となり、両地域の対立が長らく続いてきました。そんな中、1993年にベルギーは連邦制を採用し、フランデレン地域とワロン地域それぞれの自治権を強化しました。これにより、両者の対立は落ち着いては来ましたが、両者の対立が完全になくなったわけではありません。

15.ロシア


●チェチェン紛争
 日本でロシアと呼ばれている国の正式名称はロシア連邦で、ロシア連邦は85の州・共和国・自治管区・自治州・連邦市・地方をひとまとめにした連邦国家です。ロシア連邦の中には少数民族で構成される共和国が22ほどあり、ある程度独自の政治を行うことが認められているのですが、そんな共和国の一つにイスラム教徒であるチェチェン人で構成されるチェチェン共和国があります。

 1917年のロシア革命により、ロシア帝国ソビエト連邦(ソ連)という社会主義国となり、チェチェン共和国もそんなソ連の一部でした。しかし第2次世界大戦中にチェチェン人たちに悲劇が訪れます。当時のソ連の指導者スターリンは、チェチェン人たちが戦時中、ドイツのヒトラーに味方して、ソ連軍の戦闘を妨害したという疑いをかけ、罰としてチェチェン人をチェチェン共和国から追放し、はるか遠くのカザフ共和国に強制移住させることにしました。
 その結果、50万人ものチェチェン人が強制移住させられたのですが、移住する途中、足手まといになった老人、病人、妊婦たちがソ連軍に射殺されたり、やっとたどり着いた移住先でも、なれない厳しい生活のため、多くのチェチェン人たちが飢餓や貧困で死んでいきました。
 スターリンの死後の1957年になってやっと、チェチェン人たちはチェチェン共和国に帰ることを許されますが、自分たちの土地に戻れた人たちはわずか3分の1程度でした。しかも、せっかく苦労して自分たちの土地に帰っても、かつて自分たちの住んでいた土地はロシア人が自分たちのもののように使用・占領しており、チェチェン人たちはこの頃から、ロシア人をひどく恨むようになりました。
 1991年にソ連が崩壊すると、ソ連は15の国に分裂し、それぞれ独立を達成しました。この時、チェチェン共和国も独立を宣言したのですが、ソ連の権限を受け継いだロシアは独立を認めず、ここにチェチェンとロシアによる紛争が始まります

 ロシアにとって、チェチェン共和国は石油が採れるだけでなく、カスピ海にあるバクー油田から石油を供給するパイプラインの通り道になっており、石油の安定確保のためには手放すことのできない重要な土地です。さらにロシアはチェチェン共和国の独立を認めてしまえば、ロシア連邦内のそのほかの民族も独立運動を起こすことを恐れています。その結果、初代ロシア大統領エリツィンと彼の後を引き継いだプーチン大統領は、ロシア軍を積極的にチェチェンに進軍させ、チェチェンを確保することに必死になってきました。

 1994年からロシアのエリツィン大統領はロシア軍をチェチェンに送り込み、チェチェンの独立を阻止しようとします。当初、エリツィンは簡単にチェチェンを制圧できると思っていたのですが、このころからチェチェンの武装勢力は、ロシアの兵士を捕虜にするだけでなく、病院で患者などの民間人も人質に取るという非人道的な作戦を実行し、戦闘に巻き込まれた一般市民が大量に死亡するという悲劇を起こしながら、ロシアに抵抗してきました。
 1999年からはチェチェンとロシア軍との戦いが再び激しくなります。そんな中、チェチェンの武装勢力はロシア国内で5件連続の爆破テロ事件を引き起こし、300人以上の市民が犠牲になりました。これに対し、エリツィン大統領の指示の下、ロシア軍を指揮したプーチン首相はチェチェン武装勢力の鎮圧に成功します。これがチェチェン人のテロにより罪のない人々の命を奪われていたロシア人の心をつかみ、翌年、エリツィン大統領の引退を受けて行われたロシア大統領選挙において、プーチンは圧倒的な支持を得て、大統領に就任することができました。
 チェチェン鎮圧後、プーチン大統領は、チェチェン共和国の大統領にロシアに協力的でチェチェンの独立を望まないガディロフ大統領を就任させ、その後も親ロシア派の大統領の就任が続くことによって、チェチェン国内の政情は安定してきました。しかし、安定しているのは、ロシアによるチェチェン人の弾圧や、チェチェンのロシア化(反イスラム化)が進んでいる成果だということもでき、反発したチェチェン人たちは国外のイスラム教過激派と連絡を取りながら、今でもテロ活動を続けています。

●グルジア紛争
 2018年、大相撲で栃の心というジョージア出身の力士が優勝した時、多くの日本人が「ジョージアってどこ? 缶コーヒー?」と疑問に思いました。それもそのはず、ジョージアは2015年まで日本ではグルジアと呼ばれていました。しかし、世界的には英語的発音であるジョージアと呼ぶ国がほとんどなのに、日本ではロシア語の発音であるグルジアと呼んでいたところ、ロシアと対立するジョージア政府が日本に抗議したため、本人たちの要望を受けて、2015年から日本でもジョージアと呼び始めたばかりだったので、まあまあ地理に詳しいおじ様たちですら知らない人が多い状態でした。
 そんなグルジア(現ジョージア)ロシアが戦ったのが2008年のグルジア紛争です。1991年のソ連崩壊により誕生したグルジアは、国民のほとんどがグルジア人なのですが、グルジア国内にある南オセチアにはオセット人たちが多く住み、グルジア人たちと対立してきました。そんな南オセチアをグルジア軍が攻撃したところ、南オセチアにはロシア軍が進軍し、南オセチアを支援します。さらに、同じグルジア国内でのアブハジアでもと同じような事態が起こり、その結果、南オセチアとアブハジアはロシアの支援を受けてグルジアからの独立を宣言してしまいます。
 南オセチアを攻撃したグルジアもどうかと思うのですが、グルジア国内に軍隊を進めたロシアの行為は内政干渉にあたるため、世界中のほとんどの国が南オセチアとアブハジアの独立は認めていない状態です。しかし、実際には南オセチアとアブハジアはグルジアから独立した状態が続います。

 ソ連が崩壊直後、旧ソ連の国々の協力関係を維持するため、ロシア主導でCIS(独立国家共同体)という組織を作りました。しかし、グルジア紛争をきっかけに、ロシアに反発してCISからグルジアが脱退しました。このようにグルジア(ジョージア)とロシアはいまだに対立した状態です。

●クリミア問題
 グルジアと同じく1991年のソ連崩壊により誕生したウクライナヨーロッパとロシアの中間的な場所に位置しています。グルジアと同じくウクライナもソ連崩壊後はCIS(独立国家共同体)の一員であり、ロシアとも協力関係を築いていましたが、少しずつ、ロシアよりもヨーロッパやアメリカと仲良くしたいという親欧米派が育ち、とうとう親欧米派の政権が誕生するまでになりました。
 そのようなウクライナの動きに危機感を抱いたのが、ウクライナの南部に位置するクリミア半島の人たちでした。ウクライナの人口の多数はウクライナ人なのですが、クリミアにはロシア人が多く住むため、多くの人たちがロシアへの編入を望んでいました。それに目を付けたロシアは軍隊を派遣し、クリミア内の親ロシア派を支援し、親欧米派を弾圧します。そんなロシア軍の支援を受け、クリミアではロシアへの編入を問う住民投票が実施され、投票の結果、96.6%がロシアへの編入に賛成しました。その結果、ロシア議会はクリミアをロシアの領土に編入することを承認したのですが、このロシアの行為に対してはウクライナ政府が内政干渉にあたると抗議しました。世界のほとんどの国もウクライナ政府の主張を指示し、ロシアによるクリミア編入を認めていない状態です。

★アメリカ大陸の地域紛争★

16.カナダ


 カナダの領土の多くが英語圏であり、バンクーバーなどは治安がいいこともあって、日本人の英語留学先としても人気です(私もぜひ行ってみたいです)。そんなカナダの中でもケベック州は、歴史的にフランスからの移民が多かったこともあり人口の70%以上がフランス語を母国語としている人たちで占められており、カナダという国が英語とフランス語を公用語としているのに対し、ケベック州ではフランス語のみが公用語となっています。
 そんなカナダの中でも特殊な、フランス語文化圏を形成しているケベックでは、2度に渡りカナダからの独立を問う住民投票が実施され、わずかの差で独立が否決されました。しかしケベックの人たちによる英語圏の人たちや隣国アメリカへの反発意識は今も根強くあり、基本的には、独立運動はケベックが不景気になると盛り上がり、好景気になると下火になる傾向が今も続いています。

17.アメリカ「テロとの戦い
 アメリカ国内には、ユダヤ人国家イスラエルに住むユダヤ人約500万人とほぼ同じ数のユダヤ人が住んでいます。しかもアメリカに住むユダヤ人の多くが、大企業の社長など大きな影響力を持つ人も多く、アメリカは基本的に国内のユダヤ人の支持を得るため、イスラエルを支持する立場をとってきました。また、近年アメリカはイスラム教国であるサウジアラビアやエジプトとも親密な関係を結ぶようになり、サウジアラビアにアメリカ軍が駐留している時期もありました。このように、アメリカがイスラム教国と敵対するイスラエルを支援することや、キリスト教国のアメリカ軍が、イスラム教にとっての聖地もあるサウジアラビアに軍を駐留させることなどを面白くないと感じていたのが、イスラム教過激派組織アルカイーダのリーダー、オサマ・ビン・ラディンでした。
 ここで勘違いして欲しくないのが、イスラム教のことをよく知らない日本人の多くが「イスラム教徒=テロリスト」のようなイメージを持っているのですが、これが大きな間違いで、イスラム教というのは基本的には他の宗教とも仲良くすることを原則としているのに、イスラム教の教えを誤って解釈した一部の人たちが、テロ活動を行ってしまっているに過ぎないということです。そして、そんな一部の人たちによって、運命のあの日がやってきます。
 2001年9月11日、ビン・ラディンは19人のイスラム教信者に、「イスラム教の敵であるアメリカを苦しめるために死ねば天国に行ける」などと説いて、4機の飛行機をハイジャックさせ、そのうちの2機がニューヨークの世界貿易センタービルのツインタワーに激突し、1機はアメリカの国防総省ビルに突入、もう1機は連邦議会(国会)に突っ込む予定でしたが乗客の抵抗により阻止されました。これらの事件により、約3000人もの人たちが死亡しました。これがアメリカ同時多発テロ事件です。この日、夜遅く仕事から帰ってテレビをつけた私は、ビルが燃えている映像を見て、てっきり映画「ダイ・ハード」でもやっているのかと思いながらしばらく画面を眺め、実際の映像であることを理解するのに数十分かかってしまったほど、衝撃的だったのを覚えています。
 この事件の結果、世界中がアメリカに同情し、逆にイスラム教徒に対するイメージは悪くなってしまいます。ですので、怒ったアメリカのブッシュ大統領が、報復措置として、事件の首謀者オサマ・ビン・ラディンをかくまっているとされるアフガニスタンのタリバーン政権を攻撃すると宣言したことに対しても、多くの国・人々が(何か心に引っかかるものがありながらも)反対はしませんでした。そしてアメリカを中心とする部隊によるアフガニスタン攻撃の結果、約3500人のアフガニスタン人が死亡し、タリバーン政権は倒されます。その後、アフガニスタンにはアメリカを支持する政権がアメリカ主導によってつくられ、オサマ・ビン・ラディンは2011年に逃亡していたパキスタンでアメリカ特殊部隊により射殺されました。

 その後もイスラム教勢力に対するブッシュ大統領の攻勢は続きます。2003年には、テロ組織を支援し、核兵器を保有しているという理由で、フセイン大統領のイラクを攻撃することも発表しました。しかし、このときには国連の安全保障理事会でもフランス、ロシア、中国などが反対に回り、安全保障理事会ではイラク攻撃は否決される可能性が高かったのですが、ブッシュ大統領は国連の安全保障理事会の議決を得ずに、イラク攻撃に踏み切りましたイラク戦争の始まりです。この戦争の結果、2万~5万人ものイラク人が戦死し、フセイン大統領も処刑され、アメリカ兵も1000人以上が犠牲になりました。そして、イラクにもフセイン政権に変わり、アメリカを支持する政府がアメリカ主導によって作られます。
 戦争終結後、アメリカ軍はイラクを攻撃した理由である核兵器を探したのですが、結局イラクは核兵器を持っていなかったことが判明します。そう考えると、フセイン大統領がひどい独裁政治を行っていたのは事実ですが、アメリカが攻撃をした理由だけを考えると、アメリカは無実であった国を間違って攻撃し、2万~5万人ものイラク人を殺したと言う見方もできます。
 その後、イラク戦争の影響で石油の価格は値上がりし、アメリカの石油会社は収益を伸ばし、アメリカの好景気に貢献しました。さらに、イスラム教国に対する強硬な態度はアメリカ国内のキリスト教徒やユダヤ教徒の指示を受け、ブッシュ大統領はみごと2004年11月の大統領選挙に再選を果たしました。そういった意味では、アメリカのイラク攻撃は成功だったといえるかもしれません。

 これらの戦争は、現在の世界情勢を考えるきっかけも私たちに与えてくれました。冷戦の頃から私たち日本人の中にも「アメリカ=正義」のような考え方がまかり通っていましたが、アフガニスタン戦争、イラク戦争やトランプ大統領のような人物を見ていると、アメリカ人は「アメリカが世界の中心」だと思っているのかなと言う気もします。アメリカを倒す必要はありませんが、アメリカの考えを世界中に押し付けるような国際社会も明らかに危険な状態です。 
 最近は中国やロシアの影響力がアメリカに匹敵するほど大きくなっており、アメリカの一強状態は崩れつつあります。その代わり、アメリカだけでなく中国やロシアも含めた大国の都合に振り回されて戦争に巻き込まれる国は増えてきているような気もします。

18.日本の外交政策
 1945年8月15日に第二次世界大戦が終結すると、日本ではアメリカ軍を中心とするGHQ(連合国軍総司令部)による占領が始まりました。ここからしばらく日本は、主にアメリカ軍による占領統治が続いたのですが、1951年にサンフランシスコ講和(平和)条約が結ばれることにより、占領統治は終わり、第二次世界大戦で戦った国々との講和(仲直り)も達成します。しかし、この講和条約には次のような欠点がありました。

西側(アメリカ側)の国との講和条約であり、東側(ソ連など)の国との講和条約ではなかった。
②近隣の中国や韓国とは講和は結んでいなかった。
③このときの日本の領土の規定があいまいだったため、その後の領土問題を引き起こした。

 1956年に日本はソ連との間に日ソ共同宣言を調印します。これは日本とソ連が国交(お互いを主権国家として認め、交流し合う)を結ぶための宣言でしたが、残念ながらこれは第二次世界大戦の講和のための条約ではなく、日本とソ連の和解が難航した北方領土問題の解決はあとまわしにされてしまいました。ただし、それまで日本が国連に加盟しようとしても、ソ連が国連安全保障理事会で拒否権を行使してきたため、加盟することができなかったのですが、この日ソ共同宣言により日ソ関係が改善されることにより、ソ連が拒否権を行使しなくなったため、見事この年に日本は国際連合への加盟も達成しました。

 さらに日本は韓国と国交を結ぶために1965年に日韓基本条約を結びます。この条約を結ぶに当たっては、韓国側が、日本が韓国を植民地支配してきたことに対する賠償責任を追及してきましたが、最終的に日本が韓国に対して5億ドル(当時の韓国の国家予算の約2倍)を独立祝金・経済協力金として渡すことにより「これ以上韓国は日本に賠償請求をしない」ということで決着した・・・はずでした。しかし、最近になって、韓国の最高裁判所が第二次世界大戦中に日本企業に徴用工として働かされていた人たちに対して、日本企業が賠償金を払うべきだという判決を出しました。日本側からすれば「1965年に賠償請求をしないって約束したじゃん? そもそも、そういう人たちにも賠償金が行き渡るようにするために5億ドルも渡したんでしょ?」という反論なのですが、韓国側からすれば「韓国政府(国)への賠償金と、個人への賠償金は別」という言い分です。そもそも当時の韓国政府は独裁政権で、日本からの5億ドルは国の経済開発のためにつぎ込み、国民に対する賠償金としては使っていませんでした
 この問題については、日本が国際司法裁判所に訴えると言っているのですが、韓国側が拒否しているので、国際司法裁判所で解決してもらうめども立っていない状態です。ちなみに、日本軍が韓国人や中国人の女性に対して売春行為をさせた従軍慰安婦問題も同じような理由で解決していません

 そして1972年には中国(中華人民共和国)と国交を結ぶため、日中共同声明に調印します。さらに1979年には日中平和友好条約を結び、第二次世界大戦の和解にも成功しました。しかし、日本は中華人民共和国を中国における唯一の政府と認めたために、中華民国(台湾)との間にはいまだに国交はないままです。

 北朝鮮と日本はいまだに国交がないままですが、2002年に小泉首相が日本の首相としては初めて北朝鮮を公式訪問し、日本と北朝鮮が国交を結ぶために努力することを約束した日朝平壌宣言を発表しました。しかし、このとき北朝鮮の金正日国家主席が日本人を拉致してきたことを発表したことが、かえって日本人を逆上させ、日本と北朝鮮の関係はむしろその後、悪化してしまいました。

最後に日本の領土問題をまとめます。

領土問題 対立国 問題
北方領土問題 日本 VS ロシア 北海道の東にある北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島に、第二次世界大戦終了直前にソ連軍が攻め込み、日本人は追い出される。その後ソ連(ロシア)が島々を占領し続けている。
竹島問題 日本 VS 韓国 日本海に浮かぶ無人島、竹島(韓国名:独島)を日本と韓国がその領有を主張しあっている。現在この島には韓国軍が駐留している。
尖閣諸島問題 日本 VS 中国(+台湾) 沖縄の西端に浮かぶ無人島群、尖閣諸島周辺は明治時代以降日本が領有してきたが、国連の調査で石油や天然ガスが取れるとわかってから、中国や台湾が領有を主張するようになって来た。

 領土問題は、それぞれの国にそれぞれの言い分があるため、解決が難しい問題です。領土問題は、最低でもどちらかの国が少しでも譲らないと解決できないわけですが、各国の首脳ももし、相手の言い分を聞き入れて妥協した場合、国民から弱腰だと批判されて次の選挙で落選するということも考えられるわけです。
 北方領土を追い出され、もう70年以上も故郷に帰ることができない人のニュースを見ると悲しい気持ちになります。しかし、現在北方領土には多くのロシア人も住んでおり、もし、北方領土が日本に戻ってきたとしても、今度はそこに住んでいたロシア人が、70年間住んでいたところを追い出される可能性もあるわけです。
 そう考えると、領土問題は愛国心が試される問題ともいえるわけですが、日本人ファーストではなく、世界中の人たちが幸せになる発想も、愛国心と同じぐらい大事にしたいものです。
 

 

2019年8月28日